芥川龍之介の『歯車』をどう読むか35 そんなわけはない
認知バイアスに陥り、女性に性的なまなざしを向け、南朝の忠臣を崇める北朝の宮城を嘘と言い、竜が存在しないことを確認し、自らをにょろにょろ君に仕立てた上で、言葉が意味を持つということ、その本質に立ち返りつつも、「仕事も」と女の影を匂わせ、気違いの息子が気違いの娘に殺されるという筋書きの為に白衣の給仕に殴りかかられることもなく、「まだ」と「もう」に挟まれた生という欺瞞の虚を突き、さまざまな色彩の対比の中に無意味を隠し、固形物を口にせず、一度も雨の降らないあり得ない時間をふらふらと漂い、夏目漱石に苦情を申し立て、家族に縛られ、申と亥を見かけない「僕」は、精神を病んだ自殺予定者にしてはあれもこれもといささか忙しすぎではなかろうか。
高名な漢学者、T君、愛読者の青年、先輩の彫刻家、応用化学の大学教授、屋根裏の隠者はまだいい。
ストリントベルグを読む小説の中にストリントベルグという名前の被害妄想狂の瑞典人を登場させるという一種の「やかましさ」のようなものを『歯車』は持っている。(私はこの「やかましさ」というレトリックがけして嫌いではない。私自身が書き込みの多い「やかましさ」を多用する。)
やかましさは情報量の多さだけを意味するわけではない。種明かしをすれば、いくらでもゆっくりと説明できるところで速度を上げてしまうとやかましくなる。これはレコードの早回しのような理屈で、やろうとさえすれば誰にもできる。
やろうとすれば?
しかし『歯車』はただやかましいだけの作品ではない。
とても奇妙な評価をされている作品なのだ。
それはとても間もなく自殺する精神病患者の幻覚と苦悩の告白などというものではあり得ないのに、あり得る筈もないものであるにも拘わらず、圧倒的に多くの眺者、そこそこの教育を受け、幸せな家族の一員であり、極めて善良で温厚な人たちに、間もなく自殺する精神病患者の幻覚と苦悩の告白として読まれてしまっている。(この人たちは私よりずっと幸せだ。)
その読まれ方、まるで何も読んでいないような受容のされ方にこの『歯車』という小説の奇妙な成功がある。
小穴隆一が指摘している通り、『歯車』の周辺にパラテクストのようにばらまかれた手紙の類などは世間向けの目くらましなのであろう。芥川龍之介はそういうものにこそ眺者の関心が向けられることをよく知っていた。
少なくとも四つほどすっきりとした主題の作品が出来上がるくらいの要素が一つの作品に詰め込まれたのは何故なのかと考えてみる時、むしろこの忙しさ、書き込みの多さこそが肝だったのではなかったかと思えてくる。(たとえばストリントベルグという名前の被害妄想狂の瑞典人だけでスピンオフ作品が一本書けそうではないか?)
この『歯車』に対して、「書き過ぎている」と評したのは正宗白鳥だっただろうか。(正宗白鳥? そんな人がいただろうか? 島崎藤村なみにどちらが苗字なのか判然としない名前だ。)それにしても正宗白鳥はそんな意味で書き過ぎていると言ったのではなかろう。
気違いの娘のことを指摘したかっただけではなかろうか。
それではやたらと告白を見つけ出すことが好きな眺者と一緒だろう?
まさにその通りで、これまで批評家たちは文学作品を告白として読み、その中に作家の思想や人生を見出すことを手柄にしてきた。それは文学作品から時代性を切り取ることを文芸批評の目的であると考えている人から見れば呆れたふるまいであろうが、ともかく圧倒的に多くの人々は文学作品という嘘話の中に「何か本当のこと」が隠されていると信じて来たのである。
何故嘘話の中に「何か本当のこと」が隠されていると信じて来たのかと言えばそれは作家たちがしかめっ面をしているからだ。もう少しへらへらしていたら、誰も真面目に取り合いはしないのだ。
なんなら何故ホテルの昇降機がエレベーターではなくリフトなのかと問う者さえいまい。勿論当時エレベーターは存在し、エレベーターという言葉は使われていた。(「ホトトギス」は出来たばかりの丸ビルに入居した。高浜虚子がそのエレベーターのことを書いているので確認してもらいたい。)芥川龍之介は敢えてリフトという言葉を選んだのだ。
蛆はまるで肉を食うことを禁じるように今更どこかから湧いてきた、と私は書いた。そして「牛乳を入れない珈琲」と芥川がわざわざ書いて、殆ど碌な食事をしていないことを強調していると指摘した。
しかしそれ自体は「何か本当のこと」ではあり得ない。
ビルディングの三階のレストランは「僕」に食事を与えないためにその日をわざわざ定休日に仕立てたのではなかろう。そしてそんなことに気が付かないわけはなかろう。定休日のレストランは照明が落とされていて、硝子戸を押す前にそれと気が付くはずだ。何ならフロアの照明も落とされていて、昇降機を降りる前に気が付くのではなかろうか。
硝子戸の向うのテエブルの上に林檎やバナナは薄暗くて見えまい。また定休日にテエブルの上に林檎やバナナを出しっぱなしにしておくものだろうか。
鼠が齧るかもしれないのに。「僕」は高揚するつもりが不快になる。
政治、実業、芸術、科学、あらゆるものが嘘で「硝子戸越しに果物を眺めた僕」が本当だなんてことがあるだろうか。恐らく私がこんな文章を書いている同じ時刻に重たいものを担いで歩いている人が本当で、私が嘘だろう。
あるいは GPT-3が本当で私が嘘だ。同じ意味で「硝子戸越しに果物を眺めた僕」が嘘で政治、実業、芸術、科学が本物だ。
まるで妻に浮気でもされているかのような口ぶりの「僕」は、どう見てもあからさまな嘘つきだ。どれだけ嘘を並べてみれば「何か本当のこと」が語られていると信じる読者が疑ってくれるのかと実験でもしているかのようだ。
痔の痛みはどうなったのだ? 坐浴は? つまり坐浴より外に瘉すことの出来ない痔の痛みなどそもそもないものなのではないか。まさに「唯僕のペンから流れ出した命だけある」という存在である「僕」が身体性さえ喪失して「ない」時間をふらふらしてはいまいか。
そう捉えてみれば「僕」は「ない」時間だけでなく「ない」場所をふらふらと漂っていたのではなかろうか。
これは何とも奇妙な文章ではなかろうか。
・「僕」は或精神病院へ曲る横町をタクシーを何往復もさせて探した。しかし見つからなかった。
・諦めてタクシーを降りた「僕」は徒歩で「やっとその横町を見つけ」た。(諦めたはずなのに「やっと」とはまだ探していたのか?)
・するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出て夏目先生の告別式以来門の前さえ通ったことのない建物を見る。(この建物とは青山斎場そのものを指すのか?)
・そこにも芭蕉が生えていた?
・或精神病院の門を出た後、僕は又自動車に乗り……。(青山斎場を精神病院と言っているのでなければ、青山斎場の前に精神病院があり、十年ぶりにその門をくぐったという意味なのか? ならば「道を間違え」とはどういうことか?)
あるいはタクシーは昭和二年から大正十五年にタイムスリップしており、「硝子戸越しに果物を眺めた僕」は昭和二年にいて、「青山斎場の前へ出てしまった」「僕」は大正十五年にいて、
この行間に一年ないし一年半の時間のずれがあり、「僕」はその或精神病院で睡眠薬をたっぷりと処方されていたのだと考えてさえ良いかもしれない。身体性を喪失すれば「僕」が時間や空間に縛られる必要はない。
むしろ「或精神病院」を「青山斎場」の提喩と見做す方があざとい。ならばむしろ「或精神病院」などなかったにも拘わらず、夏目漱石の命日さえも忘れたふりをして十年目と言い、丁度いつの間にか痔の痛みを忘れるように、今出て来たばかりの「青山斎場」が何だったのかと忘れ、それを「或精神病院」と言ってしまう「僕」を認めるべきであろうか。
ならばやはり『歯車』は徹底して「何か本当のこと」が語られることを避け、「ないことないこと」を詰め込んだゴマ塩焼肉海鮮日の丸弁当のようなものなのではあるまいか。とにかくおかずが多すぎて飯が見えない。何も食べていないのに、腹いっぱいになる。
しかしそれが善良な人々には告白に見えてしまう。その人たちに「或精神病院の門を出た後ってどういうこと?」と尋ねても答えはなかろう。しばらく無言の後、「失礼ですが、あなたはどなた?」と返されるだけだ。Chat-GPTでも同じことだ。
「精神病者に対して治療をほどこす病院。急性の精神病をなおす精神病治療院と、慢性の者を収容する精神病保護院とに分けられる。脳病院。その入り口にある門のことです……ところで、失礼ですが、あなたはどなた?」
にょろにょろ君です。
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