芥川龍之介の『解嘲』をどう読むか① 理ヤリチイ不ラス釵ムシングを求めて
解嘲とは人の嘲りに対して弁解する事である。この文章は批評家・中村武羅夫に対する反論である。これはいわゆる随筆論として読むことが出来る。そう気が付いてみて改めて清少納言や兼好法師が『枕草子』や『徒然草』という随筆文学というものを早くに確立していて、自分がそういうもののスタイルを当たり前に受け止めてきたことが不思議になる。
確かに村上春樹さんなどもエッセイを書いていて、そこには日常生活で起きたさまざまな出来事がおおよそ事実として語られている。それはまあ、随筆であり、エッセイなのだろうと理解している。
ところが村上春樹さんには随筆と小説の境目の曖昧な、ともすれば随筆と受け止められかねないような小説集がある。それは『一人称単数』『東京奇譚集』『回転木馬のデッドヒート』などである。
何故そのようなものが書かれねばならないかということについて、これまでも繰り返し論じてきたが、はっきりと言えることは、恐らく私小説とエッセイと自叙伝と創作の間にはそもそも大きな隔たりがあり、引退したサラリーマンの自分語りやサラリーマン川柳の対極に文学はあるということだ。優れた随筆の存在は否定できないが、随筆という形式に文学性があるのではなく、随筆の中にも文学的なものがあり得るということだ。
例えばここでも名前が挙げられている断腸亭、その『断腸亭日乗』のどのページにも文学性があるわけではない。おおよそくだらないところもある。要するにどこで誰と何を食ったということ自体はどうでもいい。
こんなパーツに文学性が宿っているのではない。なんならこの程度の文章には著作権すら認められないという感じもするだろう。ところがそうした日常の記録の中で鸚鵡が来たり、あるいは、
このように俗な話が不意に現れ、
隠しようもない自分が出てしまうから面白いのだ。しかしその書かれていることの背後にある事実としての永井荷風の卑俗さ、人間味の表れに価値があり、それが文学の肝などとは言えない。一方で内田百閒や井伏鱒二のような人間味のある随筆には「そういうところ」があることをしぶしぶ認めざるを得ないような気もする。ここにはどうも厄介な問題が隠れている。
中村武羅夫の批評それ自体に誰の名が挙がっていたかは詳らかにしないが、「素朴に、天真爛漫に」と言われると、神経質な漱石や永井荷風は随分そぐわない感じがする。中村武羅夫の批評の中身の部分に沿って考えれば、この「素朴に、天真爛漫に」というスタイルはまさに内田百閒や井伏鱒二のものなのだ。そして現代において「あんまり出たらめ」を寧ろ推し進めて人気なのは東海林さだおだろうか。私は「ないことないこと」を妄想する東海林さだお式食い物エッセイが、文学ではないとは思わない。むしろ確実に某かの文学性を究めようとしていると考えている。
食い物エッセイが?
いや、何度自問自答しても答えは変わらない。池波正太郎の食い物エッセイがくだらないのではなく、古川緑波の食い物エッセイがくだらないのでもない。しかし大抵の食い物ブログは文学ではない。当たり前のようだが、そこには明確に何かが欠けているのだ。
一方河野太郎の「食い物写さないツイート」にはなにがしかの文学性があると言って良いだろう。
ただ事実のあるなしでは随筆の価値も決まらないと言ってしまうと、芥川の私小説論と重なってしまい、随筆と私小説の区別をどうするのかという議論になるだろうか。
実はそのあいまいさの中に村上春樹さんは『一人称単数』を投げ込んでみたのではあるまいか?
何故?
そこに掘られるべき何かがあるから。
で、それは何か?
それが解らない。解らないけれどおそらく重要なことだ。つまり「何どうせ随筆である。そんなに難しく考へない方が好い」という中村武羅夫の意見に私は完全に反対なのだ。
例えば私が書いたエッセイにこんなものがある。
私はこうしたものをかなり難しく考えて、その代わりいかにも「素朴に、天真爛漫に」という雰囲気を装って書いている。つまり考えながら書いている。
これは単なる言葉遊びではなく、文学の肝の部分だと考えている。
これは「あんまり出たらめ」ではないかという人は
これがほぼ見た儘の記録だと言われたらどう感じるだろうか。そもそも書かれたものの背後の事実の真偽など確かめようもないことなのだ。その上で村上春樹さんは『一人称単数』に『品川猿の告白』を納めた。
ジャン=ジャック・ルソーの『告白』にはありのままの事実が書かれていると皆信じて居る。しかし、告白など所詮本人に都合のいい作文ではないか。
柿内園子はその告白の中で「朝郵便物が届く」という設定ミスを犯してしまう。そのことでその後の彼女の告白には全く真実味が無くなる。そう、恐らく仮構であれ随筆であれ、そこには真実味とそれに加わる何か、が必要なのだ。
それを坪内逍遥は「理ヤリチイ不ラス釵ムシング」と呼んだ。なんちゅう書き方だ。
その「リアリチー・プラス・サムシング」がまだ問われ続けているのだ。おそらく小説においても、随筆においても。那べルにおいても、羅マンスにおいても亜ルレゴリイにおいても。魔イソロジイ、浮ヘイブルにおいてさえ。
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