独眼竜春水 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑨
漱石は早い。芥川は速読で遅筆、と一般に言われる。しかしそれは正しくない。芥川は俳句か漢詩かという密度で文章を書いている。漱石は長篇小説の文体で書いていた。芥川は典型的な短編小説の文体の持ち主だった。もっとも少し緩めて書いても結局話は短く終わるので、芥川は典型的な短編小説家、圧搾の美を追求した作家ということなのであろう。
そんな芥川が馬琴に問題を共有させている。
馬琴が仮に為永春水よりも筆が遅かったとするならば、それは言葉の密度が異なるのだと。為永春水は素養がないからすかすかの文章をすらすら書けるのだと。
そしてもう一つ芥川が意識して為永春水に言わせたのが「お客様のお望みに従つて、艶物を書いてお目にかける手間取りだ」ということだろう。
漱石や太宰が「艶物」、いわゆる「ちんちんかもかも」を好んで書いたのに対して、芥川はただ一作しか書かなかった。
書いたところでそれはうんこを食べる話だった。(その点は森鴎外も同じか。)まるでサムライのように徹底していて、スシのように山葵が効いている。芥川作品はテンプラのようにカラッと揚がっている。
それにしてもまだ大正六年なのである。芥川が死ぬまでにはまだ十年近くも時間がある。なのにまるで「艶物」とは決別するよと線引きをするかのように、馬琴にかこつけて為永春水、柳亭種彦を攻撃している。
この三人の比較に関してはやはり昨日引いた断腸亭の分析が妥当だろう。そしてその見立ては殆ど芥川のものと一致していよう。断腸亭の顔が長いのは伊達ではない。芥川は唐心を隠しもしないし、北京に住みたいとも考えていた。その点で馬琴と芥川は合うのであろう。断腸亭は最後の戯作三昧の人である。(これは私が勝手に言っていることではなくて、ウィキペディアにもそんなことが書いてあるし、ネオ戯作者早飯亭大糞もそんなことを書いている。)だから断腸亭には馬琴の真面目さが見えていたし、ある意味では最も戯作者らしい為永春水にこそ惹かれた。芥川は戯作三昧と言いながらどこかに芸術家としての意識があった。
しかしここでは市兵衛が馬琴に「鼠小僧」という餌を差し出したことの的確さを認めなくてはならないだろうか。これを為永春水にふっても仕方ない。鼠小僧なら談義本の馬琴だなという、その判断は適切であろう。鼠小僧の恋愛物語など想像もつかない。しかし種彦や春水なら艶を加えて人情本にしてしまうかもしれない。鼠小僧は馬琴でなくてはならない。
そう書いてみて改めて思う。まだ大正六年なのだ。何故に芥川はそこまで思いつめねばならなかったのかと。この作品はどんなくだらない批評よりも確実に未来の芥川を牽制してしまったように思う。
誰にしても自由気ままに生きられる人などいない。断腸亭もあちこちにぶつかり跳ね返されて、ああいう人生を選ばずにはいられなかったように思う。しかし芥川は大正六年の『戯作三昧』において自ら、無理やり狭いところに自分を追い込んでしまったように思える。
なんでや?
繰り返し書いているように『戯作三昧』は『鼠小僧治郎吉』に繋がる。そのことそのものには何の問題もないように思う。元々芥川のルーツにあったものが小説化されただけなのだから。
これまで私は芥川にただ一作しか恋愛小説がない理由を、彼の手厳しい失恋体験によるものと見做してきた。
しかしよくよく考えてみるとそのことのみが理由の全てであるわけもない。ごくありきたりに、芥川は『源氏物語』よりも『平家物語』を好むから『源平盛衰記』をもとに『俊寛』を書き、為永春水よりも曲亭馬琴を好むので『戯作三昧』を書いたのではなかろうか。芥川の中にはそもそも胸キュン恋愛小説の素質がまるでなかったのではないか。
五欲は放つが胸キュンはない。それが芥川なのではないか。
この「私と為永さんとは違ふ」には、「私はあんな俗物ではない」という思いと共に、「私は艶物を書かない作者だ」という強い意地が見える。この強い意地が何故のものなのかこの作品で明らかになるのかどうか。税金はいくら還付されるのか。それはまた誰も知らない。国税は1,587,261円らしいが、住民税の計算がまだだからだ。
しかしここで一つ、余り現代では言われないことを書かざるを得ない。書かないのはやはり間違いだまちがいだ。
この後馬琴は両目の視力を失い、口述筆記に寄り「八犬伝」を完成させる。だからやたらとこれまで目のことが言われてきたのだ。
ところで爲永春水は、ウィキペディアには書かれていないが、
何をお前は人様の身体的ハンデを晒しているのだと叱られても、これはやはり書かざるを得ないことだ。
春水はもがいて死んだ男だ。猥褻本を出したとして手錠を五十日かけられる刑にあって、酒を飲み神経症を起こして死んだと言われている。
学殖もなく、文章も拙くとは言われたものである。
春水はみっともない男だった。馬琴の本の版木を手に入れて、自分の名前を入れて刊行していたりしていたようだ。
馬琴にもバレている。
理屈を言えば、春水は馬琴の威を借りねばならないほど困窮していたわけだ。それは必ずしも金銭的なことだけを意味しない。春水は世に出て何者かになりたかった。既に馬琴は世に出ていた。格の違いを理解していたわけだ。それは当然馬琴からしてみれば比較にもならない差だ。
そして春水は隻眼なのである。「私と為永さんとは違ふ」とは言うと思っていた。しかし馬琴が、或いは芥川がどれほどの意味を込めて「私と為永さんとは違ふ」といったのかは不明だ。
芥川は最後、片目に障害があったようだ。
その不安はまた私にもある。
[余談]
それにしてもe-Taxはアホ仕様だな。なんで昨年の繰越金額が表示されへんねん。配当金のエクセルも相変わらずだし。自分で使ったことあるんかな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?