アコルスやわれは青菜と洗い飯 芥川龍之介の俳句をどう読むか185
石菖やわれは茶漬を商はん
大正九年七月八日、和気律次郎宛の書簡に添えられた句だ。類似の句として、
石菖やわれは古銭を商はん
というものがあったような気がするけれど、ネットにはその痕跡がないので勘違いなのであろうか。
石菖やわれは古銭を商はん
[大正九年六月三日 水守亀之助宛]
あるな。なんだ結局自分のnoteが情報源か。
ところでさて、
石菖やわれは茶漬を商はん
この句に関しても鑑賞やら解釈というものが見当たらない。つまり何故茶漬けを売らねばならないのかという動機がつかめていないのだろう。
石菖には特に因縁が見つからない。つまり何故茶漬けなのかさっぱりわからない。
石菖やわれは茶漬を商はん
また茶漬けにもこれという意味は見いだせない。
つまり、さっぱり意味が解らない。私以外の人はこの句の意味が解っていて、私一人が馬鹿だから解らないのか。
おそらくそうでは無かろう。
石菖やわれは茶漬を商はん
何故茶漬けなのか、何故石菖なのか、考えないことでやり過ごしているだけなのだろう。
考えない。
幸せな生き方だ。
石菖やわれは茶漬を商はん
これは適当に読まれた指して意味のない句だ、と断じることもできない。それは悪しき権威主義というものだ。この句にはさして意味がない。そろそろ誰かがそう言い切ってもいいのではないか。
石菖やわれは茶漬を商はん
こう詠まれているけれど、
石菖やわれは古銭を商はん
こう詠んでも良かった?
この句には、
と云う文句が添えられている。
しかしよくよく考えれば、夏の暑い盛りにお茶漬けでもあるまい。かんかん茶を沸かすのは暑くてかなわない。ここは本来であれば平安時代から食べられ、明治の俳人にも広く愛された水飯、あらい飯の出番ではなかろうか。
つまり芥川の句は、「余計に暑いやないかい」という突っ込み待ちのざれ句なのではなかろうか。
それを地球人全員でスルーするなんて、殆どいじめだ。そんなことをして芥川が自殺でもしたらどうするつもりなのだ。
あ、自殺したか。
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