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川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか⑦ 主語に注意しよう

 五島勉の『ノストラダムスの大予言』と同じ年、1973年に安倍公房は『箱男』を書いている。現代でこそレトリックと云えば村上春樹であるが、安倍公房は『安倍公房レトリック辞典』という本が出版されるくらいのレトリック名人だった。それも嫌味なく飛躍していて鮮やかな、お洒落なレトリックを駆使する作家が安倍公房で、その作品群は第二次戦後派とか(あるいは共産党員とか)というカテゴリーにほぼ意味がない程度にシュールなものであった。
 シュールということと、レトリックの上手さというものは一見別の話のようだが、物事をいろんな角度から見ているという点では共通したところがあるのではないかと思う。それは単に奇抜なものを求めるという小手先の話ではなく、リルケとハイデッガーから出発した安倍公房が「存在」というものの捉えがたさと本気で向き合い続けてきたおまけみたいなものではなかったかと私は考えている。

 例えばひとりの男に段ボール箱を被らせてみる。冗談でも悪ふざけでもなく、当たり前の存在を放棄しながら、なお箱男として存在することでようやく社会と対峙し合えるような、そんな奇妙な男を書いてみる。

 奇妙な?

 確かに段ボール箱をすっぽりかぶって街をさまよう姿は奇妙ではあるけれど、そのことだけが格別奇妙なことではあるまい。目に見えないだけで我々は少なからず段ボールのようなものを必要としていて、例えばありふれた中年サラリーマンがよれよれのスーツの下に女性用ガードルを身に着けるように、何か一つくらいはそうした厄介なものをこっそりかぶっているのではなかろうか。

 と、第七章を読み終えて思った。

 何の話?

 コジマの「しるし」の話だ。

 久々に会ったコジマは痩せていた。食べないことを「しるし」に加えたからだ。「しるし」とは貧乏な父親との絆のようなもので、汚れた運動靴も「しるし」なら、何日も風呂に入らないことも「しるし」なのだ。

 コジマはにおう。

 コンビニ人間がコンビニというシステムを利用して何とか社会と繋がるように、コジマはにおうことで父親と繋がる。父親と繋がることでコジマはコジマであることができるのだ。

 理解しようと思えば理解できなくもない話だが、それはもうほとんど段ボールのようなものではないかと私は思う。父親と繋がる「しるし」ではあるのだろうが、他人からしてみれば「におうこと」は薄っすらとした拒絶である。

 そしてコジマのロジックはやはりその先へ向かう。「しるし」は単なる父親との絆ではなく、それぞれの場所で立ち向かっている「美しい弱さ」なのだとまで言い出す。

 コジマは立ち向かっていたのだ。におうことで。

 そんなコジマに対して「僕」は手術によって斜視が治療できるかもしれないという話をする。したいとか、するではなく。

 話を聞いたコジマは「仲間だと思っていたのに」と泣き出してしまう。

 斜視であることを立ち向かうことに勝手に定義されてしまった上で、なおかつ裏切り者にされてしまうのだ。

 貼るべきはここだった。

 運命愛の魔力からの決死の離脱!

 コジマと「僕」は別れてしまうのか? そりゃ、まだ中学生だし、今が1991年ならば、二人が社会人になる前に空から恐怖の大魔王なんかが焼酎を飲みながら現れて人類を滅ぼしてしまうのだから、めでたく結婚してハッピーエンドとは思っていなかったけど、

 そうか別れるのか?

 斜視を治療しようと考えたから?

 もう仲間じゃない?

 風呂に入らない女にそんなことを言われてもどうかと思う。まずやっていること、言っていることが真面ではない。その先に出口はあるのか? 風呂に入らないでにおうことが「美しい弱さ」とは、やむを得ず風呂に入れないでにおう人の弱さを蹂躙してしまっていないか。

 斜視を治療しようという考えを「たちむかわない」と否定するのは、百瀬が言った「いじめの原因は斜視ではなくたまたまだ」という正論を無視して、病気ではなく障害を治療しようという考え自体が間違いだというようなおかしなロジックに陥っていないだろうか。

 少なからずみんな社会と対峙するために彼らなりの段ボールのようなものを被っている。見るからにばればれのかつらを被る禿げ親爺も、化粧するおばさんもそういうものであろう。たちむかうとは本来その程度のことだ。ハンドルネームに数字が入っている奴は相手にするなというネットの格言みたいなものがあるが、実際ハンドルネームに数字を入れている人はそれだけ強固な匿名性に守られたいのだろう。しかしみんなに実名を晒せというのもどんなものなのだろう、と私は思う。

 これは試練なんだよ。これを乗り越えることが大事なんだよ。いつも話してたじゃない。わたしたちは。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 こういうところだ。話していたのはコジマだ。

 思いだしてみよう。

 わたしたちはちゃんと知っているもの。なにが大切でなにがだめなことなのか。 

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 コジマは五章でこう言っているが「僕」には「なにが大切でなにがだめなことなのか」を言語化することができていたわけではない。ただなにをされてもそれを受け入れることを唯一の正しい方法だとコジマにサジェスチョンされているだけだ。
 案の定「僕」には何も解っておらず、

「……僕は、どんな方法でなにをしているんだろう」

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 これでは三振を褒められるゲーリー・トマソンのようなものだ。あるいは勝手に担がれた天皇のようなものだ。よくよく考えてみれば二人の関係はコジマのオルグから始まったようなものだ。そのコジマの革命理論は先鋭化して、偏執的になっている。

 第一「僕」は百瀬に暴力を止めてくれと談判していて、既にただなにをされてもそれを受け入れるという唯一の正しい方法を捨ててしまっているのだ。何か別の上手いやり方があるのではないかと、自殺したらどうするとか、自分が同じことをされたらどうかと、何とか理屈でやり込めようともしてみたのだ。「美しい弱さ」を信仰するコジマとはもう既にその政治姿勢に乖離がある。

 まだヘヴンの絵を「僕」は見ていない。

 そんな「僕」のやりぱみんはどうなるのか。直接的なものを求めるもうおさまらないなにかはどうなるのか。それはまだ誰も知らない。それが第八章に書いてあるのかどうか、まだ誰も知らないのだ。

 知らないまま全てが終わりになるかもしれない。

 コジマが苗字なのか名前なのかということも。


[余談]

 川上未映子ってこんな顔だっけ?


 もうちょっと細い?


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