それにしてもフランスは酷いありさまだ。
暴動、掠奪、の中で生まれる民族対立。こんなことが間もなく日本でも起こると思うとぞっとする。あれやこれやとややこしいことがある。
しかしそれでも文学を続けよう。
まるでお似合いのカップルのようだが
全く余計な心配だったのか。二人はまるで幸せなお似合いのカップルのようだ。ならいざる平太夫と摩利信乃法師の咒文は何だったのかと思うところ。
大体昔から偉い人は光ったり匂ったりするもののようで、光源氏や匂宮や薫大将なんてのもいる。この赫夜姫も「なよ竹のかぐや姫」と名付けられたのは光っていたからだ。かぐや姫の伝説は『竹取物語』が最も古く、後世種々に附會せられて、「詞林釆葉抄」などが「赫夜姫は天に上つて神となつた」と說き赫夜姫という表記が普通になった。「赫夜」は赫くというところからつけられた当て字であろう。
私は嗅ぐや姫ではないかと疑っている。
古都、燃ゆか
宇佐美りんの『推し、燃ゆ』の題名が大佛次郎の『パリ燃ゆ』のパロディを意図したものなのかどうかは解らないが、どうもそう見える。
そしてまさに今燃えている巴里。芥川にはそうした「桑海の変」が繰り返されるという意識があったのだろうか。
この『邪宗門』が書かれた大正七年と云えば第一次世界大戦の最中、米騒動のあった年だ。けして平穏な時代とは言えまい。『羅生門』ではすっかり荒廃した京都を描いた。『邪宗門』はその荒廃の前を描いているのだろうか。『偸盗』の京都も『羅生門』のように荒廃していた。それは同時代の京都ではなく住することのできない絶えず生滅遷流する京都なのかもしれない。
それ、セクハラです
人間幾つになっても恋してもいいじゃない。ただ七十過ぎの爺さんが二十代のコンビニ店員の女性に恋をしたとして、それは絶対に秘めねばなるまい。そんなものは相手にとってはただただおぞましいものに過ぎない。これはその他の性的嗜好に共通するルールだと思う。
近所のスーパーで時々上はノースリーブで下はミニスカートの明らかに後期高齢者の婆さんがいて、この人を見かけると本当に悲しい気持ちになる。その恰好を止めてくれる人が身の回りにはいないと思うからだ。
そういう意味ではこの「爺」と呼ばれる話者は、如何にも枯れたような落ち着きと慎みが感じられる年相応の人物なのだと解釈できなくもないが、私はここに少し引っかかる。
そういえばほかの家族はどうしているのだろうと考えてしまうからだ。この話者は若い時から枯れていて、嫁も子もないのではないか。だから甥の話ばかり出てくるのではないか。なんなら女には興味がないのではないか。いや、そもそもアセクショナルなのではないか。それでなければ「もっともその方には恋とは申さぬ」とまではいわれまい。
あるいはこの話者は何かと引き換えに恋をすることを諦めた人なのではないか。
おそらく話者は恐ろしく何かに欠いた人物なのだ。自分語り出来ない、何かを秘めた人間なのだ。
一つ際には申せます
恋は恋、釈教は釈教と話者は言うが、若殿様は「悲しさを忘れさせる傀儡の類い」に過ぎないと爺い臭いことを言う。つまりその恋は釈教とも交換可能だということ。
この若殿様の達観はまるで何か大失恋でもした人のものでもあるかのようである。むしろ若殿様こそが本当はアセクショナルなのではないかと疑われるくらいだ。若殿様の大失恋など『邪宗門』には出てこない。ただ、ショックな出来事としては唯一、御弟子入していた先の中御門の少納言が何ものかに毒殺されてしまったかのような事件があっただけだ。
一体若殿様はどのようにして弥陀も女人も傀儡(くぐつ)の類いにしたいのか。いやそもそも、傀儡(くぐつ)と傀儡(かいらい)では意味が違う。
弥陀があそびめでなければ、「あやつり人形」ということになる。では弥陀も女人も何者かに操られているという理窟になる。弥陀を操るとはどういうことか? 果たして姫様も操られているのか?
その答えはまだ誰も知らない。それはこの続きを私が読んでいないからだ。
[余談]
昨日書いた『ボサボサ』も巴里燃ゆ、って気がついた人、いる? いない? 王朝は民衆に顛覆されました。