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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか⑮ 素直な心で読もう

 それにしてもフランスは酷いありさまだ。

 暴動、掠奪、の中で生まれる民族対立。こんなことが間もなく日本でも起こると思うとぞっとする。あれやこれやとややこしいことがある。
 しかしそれでも文学を続けよう。

まるでお似合いのカップルのようだが

 その後若殿様はほとんど夜毎に西洞院の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤の匂いがかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲に薄色の袿を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫にも御劣りになりはしますまい。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 全く余計な心配だったのか。二人はまるで幸せなお似合いのカップルのようだ。ならいざる平太夫と摩利信乃法師の咒文は何だったのかと思うところ。

 大体昔から偉い人は光ったり匂ったりするもののようで、光源氏や匂宮や薫大将なんてのもいる。この赫夜姫も「なよ竹のかぐや姫」と名付けられたのは光っていたからだ。かぐや姫の伝説は『竹取物語』が最も古く、後世種々に附會せられて、「詞林釆葉抄」などが「赫夜姫は天に上つて神となつた」と說き赫夜姫という表記が普通になった。「赫夜」は赫くというところからつけられた当て字であろう。

 私は嗅ぐや姫ではないかと疑っている。


日本書紀傳 第5卷 鈴木重胤 著||日本書紀傳刊行會 編瑞穗出版 1944年


宝章訓函 柔遠 著||内田了譲 校内田了譲 1883年


おさ‐おさヲサヲサ 〔副〕 ①きちんと。ちゃんと。宇津保物語藤原君「よろづの人の、婿になり給へと―聞え給へども、さも物し給はず」 ②(下に打消の語を伴って)ほとんど。全く。ろくに。源氏物語帚木「―立ちおくれず」。「用意―怠りなく」

広辞苑

古都、燃ゆか

 その内に御酒機嫌の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海の変は度々あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流して、刹那も住すと申す事はない。されば無常経にも『未四曾有三一事不レ被二無常呑一』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有いますと、御姫様はとんと拗たように、大殿油の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有おっしゃいます。ではもう始めから私わたくしを、御捨てになる御心算でございますか。」と、優しく若殿様を御睨みなさいました。が、若殿様は益御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算つもりで居おると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄り遊ばしまし。」
 御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾の外の夜色へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果いものでございましょうか。」と独り語ごとのように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果くないとも申されまいな。が、われら人間が万法の無常も忘れはてて、蓮華蔵世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧に日を送った業平こそ、天晴れ知識じゃ。われらも穢土の衆苦を去って、常寂光の中に住そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。

(芥川龍之介『邪宗門』)

 宇佐美りんの『推し、燃ゆ』の題名が大佛次郎の『パリ燃ゆ』のパロディを意図したものなのかどうかは解らないが、どうもそう見える。

 そしてまさに今燃えている巴里。芥川にはそうした「桑海の変」が繰り返されるという意識があったのだろうか。

 お蓮に駄目を押された道人は、金襴の袋の口をしめると、脂ぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。
滄桑の変と云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい。――とまず、卦にはな、卦にはちゃんと出ています。」

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

じゅう・する【住する】ヂユウ‥ 〔自サ変〕[文]住す(サ変)
①住まう。住む。
②停滞する。とどまる。風姿花伝「汎ゆる事に―・せぬ理なり」。仮名草子、伊曾保「高き位に―・して」
③(他動詞として)とどめる。今昔物語集1「仏法をして久しく世に―・せむ事あらじ」

広辞苑

 この『邪宗門』が書かれた大正七年と云えば第一次世界大戦の最中、米騒動のあった年だ。けして平穏な時代とは言えまい。『羅生門』ではすっかり荒廃した京都を描いた。『邪宗門』はその荒廃の前を描いているのだろうか。『偸盗』の京都も『羅生門』のように荒廃していた。それは同時代の京都ではなく住することのできない絶えず生滅遷流する京都なのかもしれない。

それ、セクハラです

「されば恋の功徳こそ、千万無量とも申してよかろう。」
 やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物の酒ではどうじゃ。」

(芥川龍之介『邪宗門』)

 人間幾つになっても恋してもいいじゃない。ただ七十過ぎの爺さんが二十代のコンビニ店員の女性に恋をしたとして、それは絶対に秘めねばなるまい。そんなものは相手にとってはただただおぞましいものに過ぎない。これはその他の性的嗜好に共通するルールだと思う。

 近所のスーパーで時々上はノースリーブで下はミニスカートの明らかに後期高齢者の婆さんがいて、この人を見かけると本当に悲しい気持ちになる。その恰好を止めてくれる人が身の回りにはいないと思うからだ。

 そういう意味ではこの「爺」と呼ばれる話者は、如何にも枯れたような落ち着きと慎みが感じられる年相応の人物なのだと解釈できなくもないが、私はここに少し引っかかる。

 そういえばほかの家族はどうしているのだろうと考えてしまうからだ。この話者は若い時から枯れていて、嫁も子もないのではないか。だから甥の話ばかり出てくるのではないか。なんなら女には興味がないのではないか。いや、そもそもアセクショナルなのではないか。それでなければ「もっともその方には恋とは申さぬ」とまではいわれまい。

 あるいはこの話者は何かと引き換えに恋をすることを諦めた人なのではないか。

 おそらく話者は恐ろしく何かに欠いた人物なのだ。自分語り出来ない、何かを秘めた人間なのだ。


一つ際には申せます

「いえ、却々持ちまして、手前は後生が恐ろしゅうございます。」
 私が白髪を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸に往生しょうと思う心は、それを暗夜の燈火とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒などと、一つ際には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀も女人も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡の類いにほかならぬ。――」

(芥川龍之介『邪宗門』)

ご‐しょう【後生】‥シヤウ
①〔仏〕
㋐死後ふたたび生まれ変わること。また、後の世。来世。栄華物語衣珠「この世の御幸ひは極めさせ給へり、―いかに」→前生ぜんしょう→今生こんじょう→後世ごせ。
㋑来世の安楽。極楽往生。狂言、武悪「―をも願はうことぢや」
②極楽往生を願って、この世で徳行を積むこと。恨之介「ひとへに―の勤めなり」
③(「後生を願う」意から)人に折り入ってたのむ時にいう語。傾城買二筋道「―だから、ちよつと物言はずにゐて」

広辞苑

しゃっ‐きょう【釈教】(シャクケウ)
1 (釈迦の教えの意)仏教のこと。
2 和歌・連歌・俳諧で、仏教に関係のある題材。また、それを詠んだ歌や句

日本国語大辞典


仏像の研究 小野玄妙 著丙午出版社 1918年

 恋は恋、釈教は釈教と話者は言うが、若殿様は「悲しさを忘れさせる傀儡の類い」に過ぎないと爺い臭いことを言う。つまりその恋は釈教とも交換可能だということ。

 この若殿様の達観はまるで何か大失恋でもした人のものでもあるかのようである。むしろ若殿様こそが本当はアセクショナルなのではないかと疑われるくらいだ。若殿様の大失恋など『邪宗門』には出てこない。ただ、ショックな出来事としては唯一、御弟子入していた先の中御門の少納言が何ものかに毒殺されてしまったかのような事件があっただけだ。

 一体若殿様はどのようにして弥陀も女人も傀儡(くぐつ)の類いにしたいのか。いやそもそも、傀儡(くぐつ)と傀儡(かいらい)では意味が違う。

くぐつ【傀儡】 ①歌に合わせて舞わせるあやつり人形。また、それをあやつる芸人。でく。てくぐつ。かいらい。 ②(くぐつの女たちが売色もしたところから)遊女。あそびめ。うかれめ。くぐつめ。

広辞苑

かい‐らい【傀儡】クワイ‥ ①あやつり人形。くぐつ。でく。 ②転じて、人の手先になってその意のままに動く者。

広辞苑

 弥陀があそびめでなければ、「あやつり人形」ということになる。では弥陀も女人も何者かに操られているという理窟になる。弥陀を操るとはどういうことか? 果たして姫様も操られているのか?

 その答えはまだ誰も知らない。それはこの続きを私が読んでいないからだ。

[余談]

 昨日書いた『ボサボサ』も巴里燃ゆ、って気がついた人、いる? いない? 王朝は民衆に顛覆されました。


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