非人情小説とは何か 夏目漱石の『草枕』を巡って①
不人情小説といえばハードボイルド小説であろうか。しかし非人情小説というものはよく解らない。いやハードボイルド小説の定義でさえ、脂ぎったベーコンエッグを食べる私立探偵の話だと考えてみれば、それは不人情小説とも思えない。おからの好きな素浪人が活躍する時代劇は不人情ではないし、バーのドアを開けた途端殴り飛ばされる私立探偵は本当は金ではなく情で動いているのだ。本当の不人情小説は冷血小説であろう。
冷血小説、それは例えば酒鬼薔薇くんの『絶歌』であろうか。
さて『草枕』は不人情小説ではなく、非人情小説と呼ばれている。言い出しっぺは定かではない。大町桂月が既に「所謂非人情小説」と所謂の括弧に括っているので、既に誰かがそう呼んでいたということであろう。そして大町桂月自身は『草枕』が非人情小説と呼ばれることには賛同を示していない。あるいは非人情小説の定義付けにも組しない。
この非人情小説というものは、ただそう呼ばれているけれども、やはりよくわからないものなのだ。
漱石の「非人情」という用語についてさまざまな解釈を見てきたが、なかなか腑に落ちない。
なにしろ『草枕』はこう結ばれているからだ。
憐れは情である。情がない人は他人がどうなろうと関係ない。誰かが切りつけられる映像を見ると「痛い、痛い」と鳥肌が立つ人と何も感じない人がいる。何も感じない人が不人情であろう。あるいは私の本を買わない人が不人情だ。子供が泣いているとうるさいと文句を言うおじさんは、実は共感力が強くて、子供が泣いているといたたまれなくなり、つい文句を言ってしまうのかもしれない。那美さんの顔には情が出た。それを捉えた余が、「それだ!」という。ここで人の憐れを喜んでいるのが非人情ということなのだろうか。
ではそれは悲劇とは何が違うのだろう。悲劇は不幸を何か価値あるものとして捉えてきた。人の憐れを喜んでいるのは余ばかりではない。
つまり夏目漱石が「非人情」という用語でどんな新しい意匠を捉えたのか、今一つ明らかではないのだ。ここを「人情を超越したのが非人情」としてしまうと、やはり言葉遊びになってしまう。余と野武士はそもそも関係がないのだから、余が那美さんの憐れに共感してしまうのはやりすぎであろう。その憐れに味わいがあるとみるのは「超越」なのだろうか?
このくらい買いかぶってくれると作家は楽なものだ。いや、冷静に考えよう。別れた夫が三等の汽車で出征する憐れは「俗な憐れ」ではなかろうか。では何が非人情なのかと考えてみると、たまたまある作家のある小説の徹底した非人情ぶりが思い浮かぶ。
芥川の『女』は人情を超越している。何故なら蜘蛛と蜂と薔薇の話なのだ。
これは……非人情だ。しかし『女』が非人情小説といわれることは無い。こんな結びなのに。
これが非人情だと思うが、そういうことではないのだろうか。
それにしても漱石はどうも『草枕』の出来には満足できなかったようで、その後「非人情小説」そのものも引っ込めたような気配がある。
この『二百十日』には「人情」の文字はここにしかない。
さらに『野分』でも「人情」が四回、そのうち二回が「不人情」でやはり「非人情」の文字はない。
次いで『虞美人草』に「人情」という言葉は十三回、そのうち二回が「不人情」として出て來る。「非人情」の文字はない。
そして非人情小説が発展したとも思えない。次の長編『坑夫』では、「人情」が三回、そのうち一つは「不人情」、もう一つは、
この「理非人情」も漱石以前には見つからない。
そして『三四郎』ではもう非人情小説といったけすらい自体が失われ、全く別の境地が試みられているように思える。
蒟蒻閻魔の漱石だから非人情小説といわれ、そうだと開き直ったものの、流石にそこに拘泥するつもりはなく、さっさと次に進んだ、というのが本当の所なのではなかろうか。
それを「人情を超越」と持ち上げてしまえば、やはり作品が見えなくなる。
この素朴で単純な正義感を勘繰る必要はなかろう。平民が飢えてもそこに美があるとまで超越した美意識はない。あるいは至極真っ当で真面である。あるいは俗である。けして聖ではない。