『彼岸過迄』を読む 4374 愛が解らな過ぎて
市蔵は作とセックスをしたのか
「読書メーター」を読んでいたら、そんな感想(?)もありました。昔の露西亜なら普通にあったでしょうね。あるいはトルストイなら、ごほん、ごほん……。いや、ここには諸説あり、彼が日記にしたためたような激しい性欲は極めて健全なものであり、私生児も一人しか知られていないという見立てもあります。
その……話を日本に戻すと、何時の時代にも私生児というものはいて、須永市蔵の父親が小間使いの御弓を孕ませたように、市蔵も作に絶対手を出していないのかと云えば、これは解りません。しかし下女にしても小間使いにしても性奴隷ではありませんので、誰でも彼でも手を出されるということでもなかったと思われます。つまり一般論としては、そういうことは少なからずあったでしょう。市蔵が二十五六の健全な青年だとしたら、二十歳の娘の体に全く興味がないというわけはないでしょうし、書かれていない部分、書けない部分でそういうことが起きうるという可能性は否定できないのですが、それはやはり飽くまでも書かれてはおらず、仄めかされてもいないので、そこを「した」と見るのはやり過ぎなんだろうなと思います。
いかにもお上品すぎますが、やはり市蔵は二次元オタクと考えるのが正しいと思います。
市蔵は田口千代子を愛していたのか
須永市蔵の自己分析、自己評価に関わらず、書かれている内容から判断すれば、彼の高木への嫉妬心は明らかであり、その嫉妬深さはかなりのものだと思います。文鎮で殴るならまだしも、
漱石はここで自身の深層心理、意識下に潜むものの恐ろしさに驚く市蔵を捉えています。
昂奮してつい口から出てしまうことを「本音」と見做すことにさしたる根拠がないように、こうしてつい現れた白日夢を「本音」と見做すことにも根拠はありません。ただそうした激しい恐ろしさも含めた総体が須永市蔵なのですから、須永市蔵に文鎮を持たせてはいけないということだけは解ります。なんせ骨の底までですから。おでこをコツンではないのですから。
しかし改めて須永市蔵は田口千代子を愛していたんでしたっけ?
この辺りのことはやはり皆曖昧なようです。須永の理屈がややこしいですからね。
これは高等学校時分の市蔵の気持ちですね。この時点では愛しているとは言えません。
これが大学二年の時点での市蔵の気持ちです。「照れて」でも「わざと」でも「何心なく」言ったことなので、ここでも愛情、恋愛的愛情はなかったと見ていいでしょう。しかし、この問題を卒業まで先延ばしにしようとした市蔵の心に変化が生まれます。
あくまでも母の為に希望通り田口千代子を嫁に貰ってやりたいと一応は考えるわけですね。自分が千代子を愛しているとは言いません。飽くまで母の希望をかなえたいというだけです。
しかしどうも千代子の方には親の希望に関係なくその気がありそうです。
そうか、須永市蔵の父親は自尊心が強かったのですね。しかしここでもあけっぴろげな千代子の愛情のサインに対して、市蔵が「母の満足を買うための努力」と言い張り、千代子への感情を出しませんね。いや~んな感じはしたのでしょうが、障害があつて逆に燃え上がるということもなく、失意もありません。
ところでこの事件の分析が少し妙なのです。今気が付いたのですが、こんなことを言っていますよ。
これが照れではないとしたら、相当にひねくれていますよ。仮にその気がないにせよ、女の子に「あたし行って上げましょうか」と言われたら普通「もてたねー」と嬉しがるでしょう。「あたしだったら死んでも厭」とは言われたくないでしょう。それなのに「彼女が僕のところへ来たがっていない」ってどんな判断何ですかね。あ、これですね。
つまり田口千代子は死んだ魚の目をしていたわけですね。よくドトールやフレッシュジュースのバーに一人でいるOLさんみたいに、無の表情だったわけですね。そりゃ、「もてたねー」とは喜べないわけです。女の人の無の表情って怖いですよね。そして市蔵が「ただ一度……しかしこれは後で話す方が宜かろうと思う」と勿体ぶった事件が起こります。
この時千代子は死んだ魚の目はしていません。この嬉しそうな色は微かながら、親しみ以上のものを匂わせます。
千代子の嘘に市蔵はどきんとする訳です。意識下になかったところで、何か神経が働いたのです。それに対して市蔵はこう分析します。
市蔵はここでようやく自分の中に文鎮、いえ、田口千代子への無意識の愛の可能性を認めます。しかしまだ可能性です。この後二人は電話でいちゃいちゃします。これが「ただ一度……しかしこれは後で話す方が宜かろうと思う」と勿体ぶった事件で、そのはかなさは「ただ一度」とあらかじめ予告されていました。
なるほど「二人の情愛を互いに反射させ合うためにのみ眼の光を使う手段を憚」っちゃったんですね。情愛を目で伝えなかったんですね。その後はもう、結婚に向かないタイプとしての須永市蔵の独り相撲です。
愛とは何なのか、愛するとはどういうことなのか、これはなかなか難しい問題ではありますが、須永市蔵の田口千代子に対する愛を確定させるには、眼の光が足らなかったことは確かです。
[余談]
言われてみればその通り。愛と結婚は別ものだろう。という話ではなくて、ちょっと大衆性みたいな話。
以前にも書いたが私の記事の中で圧倒的に読まれているのが、
この記事で、
ほぼ同時期に書いたこの記事の十倍読まれている。そして例えば少々難しいこの記事、
よりも、まるで体制批判のような
この程度の記事の方が読まれやすい傾向にあります。なんだか昔「笑点」で歌丸さんがステレオタイプの体制批判をして拍手を貰っていたような、そんな感じがしてこれはこれで恥ずかしいものです。
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