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高史明の「『こゝろ』を巡って思う」をどう読むか① 現代国語教育の悲劇
これも『私の漱石――『漱石全集』月報精選』に収載された短文である。漱石の『こゝろ』を読んでいた息子、中学生になったばかりの息子が自殺したというエッセイになっている。国語では「現代文B」という枠組みで高校生で取り上げられるほか、早ければ中学二年で「読まされる」漱石の『こゝろ』はその取り扱いに注意が必要である。
漱石本人が子供には分からないと書いているように、この作品を中学一年で読むのは少し早いと思う。中学一年生には十分な国語力はない。書きはともかく、読みに関しては国語力は二十代にピークはない。そのずっと先がある。
しかしそれも人による。
なぜなら「読書メーター」や「ブクログ」などを見ても「最後は暗かった」と頭の悪い高校生ばかりか成人でも、冒頭のすがすがしさ、先生を過去を含めて全肯定する「私」というものを捉え切れていない人が多いからだ。『こゝろ』を読んで人間不信になったり、厭世的な気分になるのは国語力が不足しているからで、漱石が悪いわけではない。
勿論『こゝろ』には日本国の根っこにある「やみくろ」的なものも含まれている。十代でここに閊えると人生が変わってしまうかも知れない。
しかしそのことも含めて、『こゝろ』は早くても中学二年、できれば社会経験をしてから読むのが正しいのではないかと私は思う。学校という組織は生徒にとってはまだピュアなものだが、社会人になるとどうしてもピュアでない組織というものに出くわし、人間の醜さというものをとことん思い知る時がくる。
それからではないかな。『こゝろ』を読むべきなのは。
作家である親、高史明も『こゝろ』を読めていない。
彼は常々いう。「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」と。
常々は言っていない。言ったのはおそらく一度きりだ。
私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といい放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。
ここをよく読むと「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という発言が「二人で房州を旅行している際」という一つの機会と結びつけられている。「常々言っていたKの口癖です」とは書かれていない。
つまり?
高史明は間違えている。これは単純に国語力の問題で、高史明は『こゝろ』を読むに足る国語力を持ってはいない。
もう少し勉強した方がいい。
Kが恋している女性は、先生の愛する人でもあったのだ。二人は葛藤した。やがて先生はKの日頃の言葉を逆手にとって、真っ向からKを打ちすえた。Kは自殺して果てる。
先生に葛藤はあるがKの葛藤は?
そこが見えていたら大したものだよ。要するに先生のお嬢さんへの気持ちを知りつつ、知らないふりをして、真砂町事件に参与し、先生に「告白」をして追い詰めるくだりが見えていたとしたらね。
でも「Kの日頃の言葉」などと書く人にはそこは見えていないだろう。「真っ向からKを打ちすえた。Kは自殺して果てる。」だと、先生とお嬢さんの婚約、追い詰められるKが見えてこない。「この部屋にはいられないな」というリアルなKの事情が見えてこない。
そもそも無一文のKのナイフはどこからでてきたものやら。
高史明の中学に入ったばかりの子供の自殺はともかく、高史明自身のずさんな『こゝろ』の読みは現代国語教育の悲劇というよりない。
もう少し頑張ろう。文部省なのか、国語教師なのか、そのあたりの人。
[余談]
中学一年なら『はだしのゲン』とか読めばいいんじゃないかな。
あれを読んで死ぬ気にはならないだろう。