サドについて
サドについて
あらゆる点から、『ソドムの百二十日』は世界で最も驚嘆すべき本の一つである。その歴史ですら変っている。今日残っている原稿は、一本の巻物で長さ十三ヤード、幅五インチに足らぬもので、ほとんど顕微鏡で見なければわからないような文字でうらおもて両面に書かれている(印刷にしてこの作品はロイヤル・クォルトー版で五百頁に近い)。これはサドがバスティユで、一七八五年、八月二十日から、毎晩七時から十時まで、三十七晩かかって書いたものである。(『マルキ・ド・サドの生涯と思想』/ジェフリー・ゴーラ著/大竹勝訳/荒地書房/昭和五十六年/p.79)
ではその中身がどう凄いのか、という辺りについて、私の考えるところを書いておきたい。この作品は性の百科全書的な説明をされることが多い。渋澤氏の簡潔な抄訳は確かにそういう印象を与える。ただ、そのなかで一箇所、「便所の壷のように口の臭う老婆」という倒錯の一つが語られる。私はそういう性癖が存在するということをすぐに理解したが、では果たして、どのくらいの人々がそういう性癖を理解しているのか疑問である。
沼正三はマゾヒズムの理想を解説する。稲垣足穂は少年愛の美学を語る。現代ではあらゆる変態性欲にしかるべき呼称が与えられ、その変態性欲に向けられた商品が売られているのだが、実にサドはあらゆる商品を並べて自ら試供する訳のわからない店主のようである。クラフト・エビングがサディズムの代表者としてサドを選び、マゾヒズムの代表者としてマゾッホを選んだのは、彼らの趣向に対する深い理解がなかったからではなく、単にわかりやすくしたかっただけなのであるが、サドが逮捕される原因となった召使鞭打ち事件においても、途中で役割を交替し、召使に自らを鞭打たせた、というような事実にしても、単にサドをサドとしてしか理解していない人々にとっては理解しがたい混乱かも知れない。
なんなら人はありとあらゆる変態性欲をぐるりと一周して、「女房と寝るのっていいものだ」(©村上春樹)というような境地に辿りつけるものなのかも知れない。
ただし私はサドに、時代や宗教や政治的背景の中でうまく立ち回ろうとする一方で、無茶をしたい、ポテンツエネルギーの象徴のような激しさを感じた。何か事件が起これば、後ろ指を差され、噂されざるを得ない強い生命。けして真面目ではない。彼はたまたま書くことに自分のエネルギーを向けざるを得ない運命にあった。そこで彼の脳みそはばちばちと電気を発し、後のドストエフスキーよりも確かに、クールに、行くところまで行ってしまった。合コンで弾けるリーマンよりも、人の道を外れてしまった高校教師よりも、サドは冷静であり続けたのだろう。
勿論彼の犯罪などは時代背景(チキン・セックスをしただけで死刑になりかねない)を考慮しても、そんなものは大したことではない。ただし彼の想像力は、彼が感じた抑圧の強さの分だけ果てしもない。それは観察とか分析とか推測を超えたものである。
だがサドの小説を、澁澤龍彦というフィルターを通して読み、逸脱を感じることは不可能だ。虫ピンで留められた標本を見る感覚に近い。それでも色彩の鮮やかさと零れる燐粉から目を背けることはできない。
どんなに説得されようが、彼らはどうしようもないのである。
もはや良いとか悪いという範疇のものではない。
サドはそういう作家であったのだ、と今でも思う。
熟れた野生の果実のように扱いづらい。ぱっくりと割れて、おつゆがどろどろと垂れてくる。
※前世紀のメモより