『彼岸過迄』を読む 4358 作中人物の設定①「作」
何とか時系列の整理も出来て、これでなんとか『彼岸過迄』について論じる入り口の手前四キロくらいの位置に辿り着いた感じがしてきました。逆に言えばこれまで書かれてきた『彼岸過迄』というのは飛ばし読みのいい加減な情報をもとにかなりいい加減なことが書かれてきたのではないかと思います。
こんなこと書いてますよ。「認められなかつた」ってあなたが気が付かなかっただけですよね。
それではそろそろ『彼岸過迄』の作中人物の設定について確認していきたいと思います。
まず「作」から始めましょう。
作
名前は「作」。苗字は不明。出身地、家族構成も不明。身長体重不明。須永市蔵の家で雇われている「小間使い」。階級制度の厳重な封建の代に生れたように、卑しい召使の位置を生涯の分と心得ている、と市蔵からは見做されている。市蔵の母を御隠居さまと呼ぶ。
市蔵の家には市蔵、市蔵の母、作、そして名前の解らない仲働きの四人が暮らしている。作と仲働きの関係は不明。「飯焚は下女部屋に引き下がっている」とある「飯焚」も作であろうと考えられる。仲働きは市蔵の母親と親類へ出かけたりもするので、小間使いと言いながら作の仕事は家の中の下働きと考えられる。
夏目漱石作品では『それから』『吾輩は猫である』に「小間使」が現れる。役割は「下女」と同じだか『それから』の「小間使」は十六、七と若く、
と、『吾輩は猫である』から聞こえてくる声も甲高い。いや、脳内で勝手に若い女の声に変換されてしまう。年寄りなら丸髷だろうし、ここは若いと見てよいのではなかろうか。小間使いとは漱石の語彙によらず、下女の見習いのような若い下働きを意味するものと思われる。
いずれにせよ『彼岸過迄』の作中でも「自分の家に使っている下婢の女らしいところに気がついた」と書かれているので身分は下婢と同等である。
すなわち夏目漱石作品の中では『坊っちゃん』の「清」と「作」のみがかろうじて人間扱いされる下婢であったということになる。
作は一年半前の時点で十九歳。好い器量の女ではないが、慎しやかで控目で女らしい。気安い、おとなしやかな空気を持っている。頭を銀杏返しに結っている。
材料がないから何も考えないタイプだったが、市蔵から「嫁に行きたくはないかと」尋ねられて以来市蔵を意識し、千代子に微かなライバル心のようなものを抱いていた。(市蔵の一言で材料ができたのではなかろうか。何も考えていないところに材料が出来て考え始めるというのは、案外細かい仕掛けでありながら恋愛の真実の姿を捉えてはいまいか。)一方「一筆がきの朝貌のような気がした」という市蔵も作を千代子との対比の関係の中に見ている。
また『彼岸過迄』の作中では須永市蔵の実の母、やはり小間使いの御弓と須永市蔵の父親との関係の中で「対」を拵える。
まだ何か重大な見落としはないだろうか?
[付記]
とは、今朝書いた、
こんな記事にも通じる話。人は何か材料があれば、簡単に恋に落ちてしまう。失態のどきどきと恋のどきどきが区別できないという、釣り橋効果のことを芥川が指摘していたとまでは言わないけれど、ピアノに惚れるというのは解る気がする。顔はあれでも歌が上手いと惚れるということもあるだろう。まあ芥川は惚れっぽいだけなんだけど。
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