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たかうなを潮干の山に供えんか 芥川龍之介の俳句をどう読むか52
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言葉を理解するには言葉の意味を正確に捉えなくてはならない。当たり前のことだが、そういうことが案外できていない。言葉の意味は見たままの思い込みでは解らないこともある。
例えばロジックを見ていかねばならない。そういうことが案外できていない。例えば冒頭の画像の意味は?
「配当が五百万の自慢?」
そうではなくて「もし現物で保有していたら今頃含み益で三千万円以上になっているんじゃないの?」
と、ロジカルに考えることの出来る人がいるかどうかのテストだった。このテストに合格しない人は到底芥川の俳句を理解することもできない。
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竹の芽も茜さしたる彼岸かな
これもまた解らない句である。
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なるほど、
若水や茜さしたる東山
この句にあるように「茜さす」には季節はない。
彼岸には秋と春とがあるが、
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うかと咲く桜に寒き彼岸かな
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お寺には桜も咲いて彼岸かな
どうも春の季語として詠まれる習わしのようだ。
そしてなんとネットでは竹の芽をタケノコと解釈した解説がいくつも見られる。
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確かにタケノコは竹の芽ではある。しかし、
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こんな説明もある。
それでもあえて書く。この「竹の芽」はタケノコではない。
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こんな句をどう解釈しているのだろうか?
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ここで詠まれている竹の芽とは、われわれがかつおだしで煮て食べるタケノコではなく、茶筅や矢から取り除かれた部分、竹の節から横に伸びる枝になりかけの新芽のことであろう。
つまり竹の芽はいつでも生えるので季語ではなく、
竹の芽も茜さしたる彼岸かな
この句の季語は彼岸、秋の句である。そもそも春のお彼岸はタケノコの時期とはずれる。
去年見たる花賣に來る彼岸哉 芭蕉
今日彼岸菩提の種を蒔く日かな 芭蕉
これが春の句であることは誰も疑うまい。しかし、
艸の葉や彼岸團子にむしらるゝ 一茶
風吹て彼岸の鐘さびやうしになる 一茶
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これでも春の句なのだ。
それでも我鬼は「竹の芽」「彼岸」で秋の句を詠む。
無論ここも「竹の芽」に「タケノコ」でない意味を見出した芥川の季語殺しの遊びなのだが、悉く騙されているのがむしろ悲しい。なんというか、芥川を読むということは、こんなに孤独なことなのかと呆れ、私でさえそうなのだから、当の芥川の孤独はいかほどかと、さらに悲しくなる。
悪いのは過信だ。二年生ぶりっ子だ。反省の無さだ。
何も調べようとしない、教えたがり、自慢したがりの、そんなつまらない人間の一体何を信用しているのか?
茶筅や矢にタケノコは生えない。
このことを色紙に百枚書いてから、この句を読み直してもらいたい。
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どうも芥川の詠んだのはタケノコではない。
竹の枝の芽である。
芥川龍之介という人はそういうことをやってくる悪戯坊主なのだ。
竹の芽も茜さしたる彼岸かな
このきみも茜さしたる彼岸かな
かくばしら茜さしたる彼岸かな
ちひろぐさ茜さしたる彼岸かな
からたけに茜さしたる彼岸かな
にがたけに茜さしたる彼岸かな
たけめはる茜さしたる彼岸かな
たけ芽立ち茜さしたる彼岸かな
このきみもあさひこさしたる彼岸かな
かくばしらあさひこさしたる彼岸かな
ちひろぐさあさひこさしたる彼岸かな
からたけにあさひこさしたる彼岸かな
にがたけにあさひこさしたる彼岸かな
たけめはる朝影さしたる彼岸かな
たけ芽立ち朝影さしたる彼岸かな
このきみも朝影さしたる彼岸かな
かくばしら朝影さしたる彼岸かな
ちひろぐさ朝影さしたる彼岸かな
からたけに朝影さしたる彼岸かな
にがたけに朝影さしたる彼岸かな
たけめはる朝影さしたる彼岸かな
たけ芽立ち朝影さしたる彼岸かな
この句は「竹の枝の芽に茜がさしている秋分であることよ」という意味だ。
【余談】
大正二年の芥川龍之介の書簡を読むとやはり俳句の感覚はなく、完全に短歌の世界にある。勿論ひいき目に見てもこれは凄いというものはまだ見当たらないけれども、多少は古語も交えて、破調に、和語漢語外国語を抜かりなく駆使しようという態度と「天才」の自覚が確認できた。
漢詩も一つあった。こちらは私に素養がないので何とも評価できない。ただ「ふーん」するしかない。
[余談②]
なかなか認めない人がいる。
がんとして認めない。
しかし事実は事実だ。
「ふーん」星人にはそれだけのことが一生解らない。
何のために読んでいるの?
結局誰も『源氏物語』さえ読んでいない。辞書さえ追いついていないのだから仕方ない。
ハイポーが抜ける、も、矢の根を伏せて、もみな解らなくなっている。
何も調べなくても芥川の俳句くらいわかるなんて勘違いしている人は、ただの莫迦だ。