この風巻の「保元平治の亂や清盛の獨裁政治といふやうなものは實は表面化した一部のあらはれに過ぎない」という見立てには、確かに一瞬虚を突かれるものがある。私は谷崎の『信西』を読んで以来、何度もこの保元平治の亂あたりの「出来事」について調べて考えてきたが、何が起こっているのかよく理解できなかった。それを表面化した一部のあらはれだとしても内面が見えるわけではないが、違うアプローチで考えてみようというヒントにはなる。
これまで私は夏目漱石の文明批評・明治政府批判が、『門』以降、間接的になり、解り難くなったこと、にもかかわらず谷崎潤一郎の明治政府批判が『誕生』から少なくとも『正成寺物語』までは明示的に続けられてきたことを確認しながら、俊成の「時代」というものを考えてこなかった。俊成が家柄にふさわしい程度に出世も出来ず、隠者となったところから始まる風流とは、これまでの私が抱いていた圧倒的な権威としての俊成による『六百番歌合』のイメージとは真逆のものだ。
判者としての俊成はあくまでも圧倒的な権威に見える。知識量ではなく、張り出しで押し切る。しかし確かにその「時代」というものを見た時には、それは寄る辺ない世界であり、末法であったとは言えるだろう。故に俊成は万葉集の典拠にこだわらず、抒情性の優位を選んだのだと。
なんとなく艶にも哀れにも思える「幽玄」、隠者によって要求された詩、精神の貴族主義。
そう思ってみれば大正時代のチャンバラ小説同様、谷崎潤一郎のマゾヒスト小説も、夏目漱石の姦通小説も、末法が生んだものであると言えなくもないかもしれない。言えなくなくもないかもしれない。いや、言える。
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1127608?keyword=%E9%A2%A8%E5%B7%BB%E6%99%AF%E6%AC%A1%E9%83%8E&page=2
しかし……後鳥羽院を持ち上げるのはいいが、風巻の「現実的手法」は見えない。楽天に売っているのか? 東急ハンズか?
はしゃぎすぎ。