尾崎紅葉と樋口一葉を誉めるのは当然のことだ。鏡花を誉めるのも頷ける。樋口一葉と泉鏡花は西洋を必要としない稀有な存在で、その他大勢の明治のインテリたちが西洋になにがしかの手掛かりを求めたのに対して、樋口一葉と泉鏡花はそういうものを必要としなかった。だから、この指摘は圧倒的に正しい。
鴎外は樋口一葉は認めたが鏡花を批判した。芥川はそれに対して、尺度が異なるから仕方がないんだと反論する。
私が樋口一葉と泉鏡花は西洋を必要としなかったと書くのはほとんど三島由紀夫の受け売りである。三島由紀夫と同様幼いころからの観劇体験を持つ谷崎潤一郎もやはり鏡花の独特の「日本らしさ」というものを評価しているように思える。
ここで漱石は文学者の手際として、特に「日本的なもの」という指摘をしてはいないが、西洋の小説には反対に要点のつかめないやたらと長い描写があることも確かである。ここは「中心點を讀者に示して、それで非常に面白味があるといふやうに書く」という鏡花の描写の巧みさを抽象的に説明しているので少しも「日本的なもの」という感じがないのだが、おそらく漱石が思い浮かべていた鏡花の文章はこのくらい日本的なものである。
この「二坪」に始まってどこに着地するかと思えば目線が伸びる枝に移り、窓に移り、姉上の笑顔に移った文章は、凝ったかかり言葉を排して繊細かつ華麗、ちょっと西洋にはないものだと思う。
芥川のこの何気ない書簡も、実に日本的なものであろうと思う。そしてほとんど詩だ。こういう文章が書けるのだから鏡花を誉めるのは嘘ではない。こういう文章を書けない人が鏡花を誉めていたら嘘である。
ある意味では詩的、観念的で、浪漫派のようで幻想的、どう表現してもいいが、鏡花は褒めていい。
そういえば芥川も幼いころから芝居を見ていた。このあたりの感覚があるとないとでは、鏡花に対する向き合い方が変わってくるのであろう。
[付記]
ところでこの後、
として森田思軒の翻訳小説が鏡花に影響を与えていたという見立てが語られる。
これはよく解らないので調べたいところだが、森田思軒と泉鏡花は今からでは無理かなあ。