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芥川龍之介 大正六年六月 俳句一句 一節切


 由宇の駅長と話したら尺八道楽だが蚊が多いので吹けないと云ふそのせゐか国産の第一は蚊帳ださうだ


蚊帳釣つて吹かばや秋の一節切(ひとよぎり)


[大正六年六月  松岡譲宛]







六月に蚊とは少し早いような気もするが……。

此の一節切は或は一節截、一簡切、一重切とも書き、字の如く其の笛の構造が只一節を存するに依りて起りたるものなり之れも亦後に詳述すべきが故に今多くを云はず、
惟ふに一尺八分の一節切なるものは我國中世に起りたるものにして其の長さを以て一八人一八人分說直に尺八の語源なりとするは、當を得たる說と云ふこと能はず

「一節切は唐にては之を洞簫と名けて、東坡か赤壁の客も吹もてあそび、佛世には六祖も吹玉ひ鳴東來の唱歌あり」と云ひ、年山紀聞にも「今按尺八の笛ふるきものなり、
遊びし時、朋友の揚昌が吹しもこれなり、彼の賦に云へるごとく微音にして其聲縷のごとく今の一重切のほそくかたきやうの聲なり、余が家古き洞笙を傳へうつすものなり」と云へり、今此等の諸說に依れば、洞簫が尺八の前身なりしこと…
所謂一節切なるもの新に起り、一般貴賤の樂器となりて德川氏の中頃迄行はれたり、此の一節切と稱する尺人は畢竟古の尺八を改造したるものに外ならず、而して一節切尺八と相並んで別に一種の尺八起れり所謂虛無僧尺八
歌舞音樂略史に「尺八は今大和法隆寺に藏する所當時の物なるへし、曲尺を以てはかれは一尺四寸五分あり、これ則ち唐の小尺の一尺八寸なり唐の小尺一尺は曲尺の八寸五厘强に當る近きころまで普化僧の專ら用ゐし一節切
本朝世事談綺正誤に「一節切と尺八とはもと一物にて後世二にいひなせるかそは近く尺八を作るに、節をいくつもこめて切ゆへ一節のものを一節切とはいふなるべし」としたる如く、一節切の名は尺八の變遷に伴つて

尺八史考尺八の形は和漢三才圖繪と傍廂とに左の如く圖を載せたり和漢三才圖會所載一節切。。。
尺八史考なりしやは今據るべきものなきを以て知ること能はざるも和漢三才圖會、羅山文集、天野政德隨筆等の記事を綜合して考察するときは、所謂一節切にして、古の尺八とは大いに形を異にするものの如し、尙ほ體源抄に
尺史考眞懷角錄賢仁舌桿後甚右尺八穴名ハ長與宿誦記之畢一節切は諸書に宗佐(又ハ宗左)を以て我國の始祖とせることは前に說きし所なるも、其の中興の祖は大森宗動なるが如し、紙鳶に「そのかみ異人ありて宗佐老人に傳
を吹に高名なり宗動が流なるべし」と見ゆ、此の宗三と云ふは中村宗三の事ならん、此の人は寛文四年中糸竹初心集を著して一節切尺八の事を詳密に記述せり、今其の中に就き「一節切の尺八切やうの事」と題せる一編を左に
の勢漸く衰へ初め、文化文政となりては殆んど吹くものなかりしと云ふ、南畝莠言に「天明の頃深川にすめる調理家望汰欄のあるじ祝阿彌一節切を衰尺一退八節期の切學びて吹しが、名管の世にすくなきをうれへて今の世に一節切

先づ音孔の表に四あり背に一あることは、虛無僧尺八と一節切尺八の二者相同第四編八尺の變遷代の點同の僧八節尺上ハ虚切無尺尺八各異
の尺八も長短ありて一定せず、尤も一尺八寸又はそれ以上と云ふが如き長きものは無かりしやに思はる、一節切は名の示す如く一節を法となせるも、虛無僧尺八井上古の尺八は概ね三節にして殊に虛無僧尺八は後世に至り專ら
史をあまたにして、竹の根ぎはを切りて一刀のかはりとす、かくては短笛の名も一節切の名義も失へり(中略)彼の一尺八寸の喧嘩道具の尺八は、樂器にあらず今は僧徒の器となりて本寺さへ出來たり云々」と見ゆ此の雁金文七
予は下より一二と覺へたれば下より上るを是なりとす、奧妙に至らば下を一とする事分明なり自得せば始めて夢の覺たることくならむ、然れども人に對して穿鑿せず、無益の時日を費すををしむ、△問尺八は竹の本を用ひ、一節切

尺八史考 栗原広太 著竹友社 1918年

 ざっくり言えば長さはまちまち、諸説ありというところ


駿国雑志 8冊

洞簫後世尺八尺八一節切解入尺八ハ、シヤクハチ、又サクハチノフエトモ稱ス、蓋シ李唐ノ初メ、呂才ノ造ル所、其長サ唐ノ今尺一沢四十四テ名ヲ得タリト云フ、唐六與ニ燕樂部ニ收メ本邦マタ唐樂小尺一尺八寸
尺八ハ汎ク一節切ノ事ヲモ尺八ト稱ス、因テ今其區別シ難キモノハ、併セテ後世尺八條ニ載セタリ、抑モ後世ノ尺八ハ中古別ニ支那ヨリ傳ヘタルモノナルベシ、一節切ハ足利幕府ノ末ニ宗佐ト云フ人アリ、此技ヲ

古事類苑 楽舞部12

一節切是なり。其長一尺八分有物を黄鐘切と称す。伝に曰一節切の寸竹の太細によつて長短有。定法一尺八分に節の上を三寸八分になして。節の下を七寸と定む。又一尺に切物を盤渉切と云。

糸竹古今集


糸竹古今集

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