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小森陽一の『漱石深読』をどう読むか④ だから藤尾は自殺なんかしていない

割引あり

 これまで文庫本の解説か何かで小森陽一が「藤尾は漱石に殺された」と書いていたことにより、小森は藤尾が自殺したのではないことを理解していると考えてきました。石原千秋は抽象的表現というものが理解できなくて、そのまま毒を呑んで自殺したと理解している。そことは差があるのではないかと理解していた。

 ところがどうもそうではなさそうだ。

 この悲劇を題材にした虞美人曲が奏でられるようになり、それを歌うと茎や葉を動かすという伝説に貫かれた植物が虞美人草。それを題名に選んだとき、男と男の間にはさまれた女は自殺する、という筋立てが完成する。

(小森陽一『漱石深読』 翰林書房 2020年)

 漱石作品は必ずしも結末が確定されないまま書き始められることもあり、『門』や『虞美人草』はそうした作品だと考えられている。

藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。德義心が缺乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。

漱石全集


漱石全集

 この有名な手紙を小森陽一が読んでいないとも思えないのだが、小森はここで「自殺」という言葉を不用意に使っている。

 そしてさらに、

 実際、全百二十七回の新聞連載小説の百二十四回と百二十五回の間の空白において、紫の女「藤尾」の命は絶たれる。第百二十四回の末尾近く、甲野の父親の遺品である「長い鎖」の「深紅の尾」が「怪しき光を帯びて」いる金の「時計」を宗近が投げつけて破壊した直後「呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた」というところまでは、地の文は書きつけている。
 しかし第百二十五回においては「我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた」と抽象的表現で死に方の真相を隠した形で、「藤尾は北を枕に寐る」という結果だけが読者には伝えられることになる。


(小森陽一『漱石深読』 翰林書房 2020年)

 ええと。

 何回目かな、この話。

 ものすごくシンプルに、抽象的表現は既に起きた藤尾の死に意味付けを与えているだけで、死の真相が隠されたわけでもなんでもない。小森は「藤尾が毒薬を呑んだわけではない」というところまでは理解しながら「自殺」という考えが捨てられない。


 まあ、読んで勉強してください。

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