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川上未映子の『マリーの愛の証明』はどこがこわいか? ①書かれていないからこわい


 もしかしたら川上未映子は「女性自身」なのではないかと疑ってみる。冷蔵庫から毛むくじゃらの赤ちゃんが出て来たり、鬼嫁の雑巾ステーキや愛子さまのスキャンダルが出てこないだけで、ただどうしようもなく問題を抱えた女性ばかりが現れて、何も救いはない。つまり他人の不幸は蜜の味というスローガンを掲げ、意地悪く半開きの目を探し続ける作家なのかと。

 そもそもこんな書き出しの小説が他にあるだろうか。

死ね、という言葉を

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

豊島与志雄に『死ね!』という作品がある。

それくらい意地の悪い書き出した。

 死ね、という言葉を人にむかって決して言ってはならないという教育のおかげで、マリーはこれまで一度も人にむかってそう言ったことはなかったし、また、内心でもそんなふうに思ったことはなかった

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 この「ならない」や「なかった」で誤魔化されるわけにはいかない。川上未映子は読者が最初に眼にする言葉に「死ね」を選んだ。それはSNSでは問答無用で規制される文字列であり、攻撃的な言葉だ。そんな言葉を口にするのも思うのも良くないことは当たり前で、それは教育以前の問題なのだ。

 しかし川上未映子はこうも書いてみる。

けれども、死ね、なんて言葉は当然のことながら、マリーのまわりでは誰もが笑いながら普通に使っていた。それは住む場所が変わってもそうだった。テレビでも、それからたまに見るネットなんて言わずもがな。それは、ごくごくありふれた挨拶——とまではいわないけれど、そんなのはまあ、いくらでもある気軽なものなのだ。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 これはどこの世界の話だろうか。「死ね」はダウンタウンの浜田雅功にのみ許された突っ込みワードであり、SNSでは「死ね」も「馬鹿」も書けないからと言って「タヒね」なり「ウマシカ」と工夫されてきたのではなかったか。「死ね」は誰もが笑いながら普通に使っている言葉ではない。しかし川上未映子は主人公マリーをそういう世界の中に置いた。それは普段私が見ている世界とは少しずれた世界で、その世界では誰もが笑いながら「死ね」と言うのだろう。

 そんな世界にありながら、マリーは「死ね」という言葉を見聞きするたびに昔父親から受けたであろう叱責を思い出し、体を硬くする。この父親のトラウマと最初の「教育」の関係がたちまち解らなくなる。善良なごく当たり前の家庭に育ったお嬢さんなら、生涯「死ね」という言葉を人にむかって言うこともなく、内心でもそんなふうに思うことはなかろう。そういう家庭環境が「教育」なのだとしたら、父親はどこからやってきてマリーに一体何をしたのだ?

 ここには巧妙なロジックが仕掛けられる。

だいじょうぶ。ぜんぶ終わったことなのだ。眠っているわたしをもう誰も触りにやってきたりはしない。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 これはSNSにありがちな酷い印象操作だ。誹謗中傷だ。これではまるでマリーの父親が、近親相姦で児童虐待を続けてきた鬼畜であるかのようではないか。

 そう気が付いてみてようやく父親のトラウマと最初の「教育」の関係が見えてくる。マリーの母親はマリーに対して「死ね」という言葉を人にむかって決して言ってはならないと教育し、マリーはこれまで一度も人にむかってそう言ったことはなかったし、また、内心でもそんなふうに思ったことはなかったのだとしたら、マリーの母親はマリーに対する父親の行為を受け入れなさいと教育したことにならないだろうか。仮に近親相姦で児童虐待を続けてきた鬼畜相手なら、「死ね」という言葉を使うことは許されてしかるべきなのではないか。

 死ね、という言葉がマリーの父親の発したものでないとしたら、マリーの父親に対するトラウマと「死ね」という言葉は、それが間違った形で禁じられたというところでようやく結びつく。

 死ね、と言う言葉はマリーにとって意味のない冗談なのではないのだ。

 そしてここで本当にこわいのは書かれていないマリーの母親だ。彼女がどのように歪み、どんな正しさをマリーに押し付けようとしていたのかを考えるとこわい。

 そういうことはよくあることなのよ、と母親が言ったと書かれていないからこわい。川上未映子はこわい。

 あまりにこわいので②に続く。


[余談]


恋死なば恋も死ねとや我妹子が吾家の門を過ぎて行くらむ

                        柿本人麻呂

 普通に使われとる。

 解ける。


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