罰するだけの如来様? 芥川龍之介の『尾形了斎覚え書』をどう読むか②
昨日は何故伴天連に助けを求めず医者の所に来たのかというあたりについて書いた。『邪宗門』の摩利信之法師のような念力は伴天連にはないのかあるのか。そもそもこの切支丹はどういう種類のものなのか。そのあたりが解らないから引っかかるという意味だ。
この引っかかるということをこれまでずーっと何千回か書いてきた。それはつまり「流さない」ということだ。Audibleで『黄色い家』を聴いた人の感想を読んだら「きみこさん」「はな」と平仮名だった。あらためて、あ、もうAudibleでは言葉は音なんだ、文字じゃないんだ、と引っかかった。つまり「アルマ次郎」が「あるまじろう」になってしまって、ディスレクシアとかカナモジカイなんかは大喜びなのだ、と気が付いた。
しかしそういうことになると文字の並びの美しさとか、同音異義語とか、そういうものが全部なくなってしまうわけだ。よくカンガエタラあるはずもない抑揚が付いていたりして。
川上未映子さんと村上春樹さんはこの間ペアで朗読会をやっていたから、むしろ聞かせるということに積極的な印象がある。しかしおそらくそれは読書とは違うよね。
と、話はそれたが、読書とAudibleはイエス・キリストの直接指導とカソリックくらい違うよね、と昨日思った。イエス・キリストなら里の病気なんてすぐに治してくれる筈だから。子供の病気も治せない宗教なんてものは何をどう信じればいいのか解らない。
※長袖ながら……長袖とは武士に対して、公家・医師・神主・僧などのこと、ここでは「医者ではあるけれども」という程度の意味。
篠はまた脈を診てくれと頼みに来たと。そして尾形了斎は「娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候」とかなりきついことを言っている。
しかしこの教えはイスラム教並みに厳しいようだ。「切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私魂躯とも、生々世々亡び申す可く候」とは棄教を絶対に認めない宗教だということだ。阿含宗でもそこまで厳しくはないから、まさしくこの切支丹宗門はかなり面倒臭い教えのようだ。しかも娘の病気を治してくれるわけでもない。
なんのメリットがあるの?
それでまあ、仕方なくころんで、「くるす」を三度踏んだと。しかしまあ、そもそも篠が何故この切支丹宗門を信仰するに至ったのかということがわからないし、信仰の深さも見えないので、その「ころぶ」という大事件が今一つ重くは感じられないのだなあ。
そしてよくよく考えたらここまで伴天連さえ姿を見せているわけでもなく、篠という後家さんが勝手に切支丹宗門を語っているだけで、なんというか「勝手に困っている」感じがなくもない。
やはりそもそも何故この切支丹宗門を信仰するに至ったのかというところの原因なりきっかけの深刻さがないと「勝手に困っている」感じしかないんだな。それと「伴天連に何とかしてもらいなよ」とも言いたくなる。
その点ヨガなんかは結構ちょっとした不調は治してしまうし、納得感があるんだな。
①何故芥川は切支丹ものを書き続けたのか。
②最後にイエス・キリスト個人について批判したのは何故か。
さてここで切支丹ものにおける根本的な問いに立ち返ろう。
まず芥川は「この切支丹という素材は面白い」と考えていたというところまでは確かだろう。切支丹は小説になると考えた。しかし芥川が切支丹をどう見ていたかということははなはだ謎である。
例えば一応クリスチャンということになっている遠藤周作の『沈黙』において踏絵は悲壮な覚悟で行われ、なおかつそこに殉教者イエス・キリストの「真の教え」が見えるというドラマが組み立てられていた。
切支丹側に立ち、キリスト教を完全擁護する立場が貫かれた。
比較してみるまでもなく、芥川は果たしてどちらの立場なのか、切支丹の敵なのか味方なのか、まずその点が判然としない。芥川自身は「自分はキリスト教徒にはなれない」という立場だったはずだ。
例えば『煙草と悪魔』において切支丹は悪魔をだますずるい人間であり、結果的に日本に煙草を蔓延させた犯人でもある。『じゅりあの・吉助』など、かなり邪な動機で信仰が始まっている。『おしの』は「エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」というジェズス・キリストの言い分を「臆病者」と切り捨てる話である。どうもキリスト教徒の味方ではない。
一方『奉教人の死』など一応殉教者寄りの作品もなくはない。その立ち位置は一定ではないのだ。いわば自由、好き勝手にやっている。
たとえば『さまよえる猶太人』の中のイエス・キリストはかなり恐ろしい。
そしてこの場面はどうか。娘はもう手遅れ。早々に引き上げようとする尾形了斎の「袂」に縋りつく篠。ここで先ほどの「長袖ながら」のふりが効いてくる。これがノースリーブだと縋りつけない。
そして篠は悶絶。ということは娘の病気さえ救えなかった泥烏須如来がころんだ罰に篠の命を取りに来たということか。それは全然フェアじゃないな。それでいいのか、泥烏須如来! なんとかしろよ泥烏須如来! と思わせるように芥川は書いているな、と思ったところで今日はここまで。
[余談]
ほんまやで。
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