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つめたくも太刀を頂く塚の霜 夏目漱石の俳句をどう読むか95
つめたくも南蛮鉄の具足哉
解説によれば円福寺において新田義宗、脇屋義治の遺物を観て詠まれた句のようだ。
この脇屋義治の方は「伊予国温泉郡に逃れたとの伝承」があるので遺品が伝えられているのは、おおっとなる事実である。新田義宗は伊予とは無関係なので何故遺品が伝わってるのか謎である。もしかしたら阿波に落ち延びたという伝説の先に伊予があるのか。だとしたら漱石はかなりの大発見をしてるのではなかろうか。
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え?
普通に伊予に行こうとしていた?
阿波の薬王寺からは相当な距離やで。
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これ殆ど歴史ミステリーやん。
伊予も、.程近からんってなんでやねん。
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いや、郷土史的には二人とも宇和島に行ったことになっていて、それで新田神社かあるということになっているわけだ。ウィキペデアと全然違うやん。ほんまかこれ?
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大島から丸穂に至る途中で具足や刀を売ったのか?
この辺りの話は南朝贔屓の流れの中で捏造された可能性もなくはないけれども掘ればかなり面白い話が出てくるかもしれない。
どちらがどちらのものとは書かれてない。ただ南蛮鉄が高価であった時代のものであれば、具足が新田義宗のものか。それにしても「つめたくに」ということは触ったのであろうか。五百年以上前のものを、手が触れられる状態で展示してあるものかなあとも思わないではない。
ただもし触ったとしたら漱石がかなり関心を示していたということになり、漱石も南朝びいきが疑われるところである。句としてはその思わず触れてみた漱石の感触というのが全てで、南朝の武将へのシンパシーというのは少し余計な穿鑿かもしれない。
山寺に太刀を頂だく時雨哉
こちらもまあストーリーを考え始めるときりのないところではある。ここで刀を捨てたのか、という感慨が現れたような句である。武士が刀を捨てるとは、殆ど出家するような感覚ではなかろうか。
この時漱石が見た太刀がどのような状態のものであったのかはさっぱりわからない。それがピカピカに研ぎあげられた美術品のようなものではなかったのではなかという感じがあるだけだ。それだけに「頂だく」に、掲げられたような遜りが見えるようである。
やっぱりシンパシーはある?
塚一つ大根畠の広さ哉
日浦山二公の墓に謁す、と添えられている。それ完全に尊敬している、敬ってるということだよね。わざわざ寺廻りしてるんだから、完全なる南朝びいきだ。
この場所は解説によると、松山市河中町附近とされてる。
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そう遠くはないが、ついでに寄ったという感じではなく、わざわざ行ったとうところか。回りには何もなさそうだし、行きたかったということだね。
大根畠の広さはまちまちとして、私の感覚だとそう広くはない感じがある。ただここで「広さ」と詠まれ「塚」と呼ばれているのは、高さも目印もない面積だけの墓だということなのであろう。立派な墓石を用意してくれるものはなかったのである。
応永の昔しなりけり塚の霜
解説に「応永は室町時代の年号。義宗、義治はともに応永十二(一四〇五)年に病死した。(『新編温泉郡史』)」とある。まあそう書いてあったんだから仕方なけれど、ここはあくまでも諸説ありだから注意が必要だ。
南北時代は鎌倉と室町に挟まれ、広義の室町時代に含まれ1392年まで、1405年は室町時代。義宗は1368年に戦死したという説もあるので、もう少し丁寧に説明してほしいところ。
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あるはまた応永二十年まで生きていたという説もあるので剣呑である。
句としてはああ、南朝の潰えたのはもう随分昔のことなんだなあ、残念なことだなあ。北朝より、南朝がいなあ、という感じが伝わる良い句である。
[余談]
平家や南朝の子孫は蘇民将来みたいに全国に存在するものなのかもしれない。それにしても新田義宗は諸説ありすぎな感じがするなあ。