川上未映子の『シャンデリア』はどこがこわいか?
川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』は恐かった。
どうしてそんなに彼女は何かが欠けている感じがするのか、彼女に届いていない箱は何なのかという問いが消え去らないまま『シャンデリア』を読まされる読者は、改めていつの間にか自分が「引きずっている」感じになっていることを自覚せざるを得ないだろう。当然それは仕組まれたことで、ただ川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』は「後味が悪い」だけではなく、彼女に届けられる記憶の箱のような読書体験と云うものを強いている。
このややこしい「自分」というものを無しに「彼女」の話をただお話として読むことのできる読者はどれくらい存在する者だろうか。実際多くの人は殆ど悪意のかけらもなく「自分に置き換えてみると」と作品のどこかに自分を割り込ませようとしているものだ。しかし居場所がない。「後味が悪い」だけでも居場所がない。だから仕方なくwithoutの感覚のまま『シャンデリア』を読むことになる。
実は私は「読書メーター」の夏目漱石の『こころ』(新潮文庫)の感想と云うものを全て読んでいて、日々更新されるものも含めて全部読んでいる。(夏目漱石作品の感想はほぼ読んでいる。他にも読んでいるものもある。)そうするとやはり女性はかなりの割合で「奥さん」「静」に感情移入していることが解る。(気になる感想があればプロフィール迄見に行くのが私の性格だ。)「自分ならやはりKではなく先生を選ぶ」とか「残された静が可哀そう」とか、そういう感想が女性には多い。どこぞの意地悪な文芸評論家のような「静策士説」は皆無だ。おそらく自然な読書と云うものはそんなものだろう。川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』はそんな読書を許さない。手厳しく払いのけられる。川上未映子は「家庭画報」でも「女性セブン」でもない。
川上未映子は「エル・ジャポン」でも「ラジオライフ」でもない。書き出しからいきなり喧嘩腰だ。しかも大抵の男性は矢張「飽きませんか、さすがに」の方に感情移入せざるを得ないだろう。
しかも「わたし」はそう呆れさせるように事を運んでいく。
しかしよくよく考えてみよう。
そもそも彼女の仮想敵は妄想の中にしか存在しえない。
誰も「わたし」の行動を一日中観察している訳ではないのだ。だから「そういうのって楽しいんですかね、と聞かれること」など本来あり得ない筈なのだ。
彼女はただ喧嘩腰なのではなく、喧嘩を売っているのだ。読者に。
もしも「わたし」が小説の主人公でなければ、誰も彼女の行動を観察できないし、「飽きませんか、さすがに」と心のなかで思うこともない。
そんな箱が届けられて、読者は困惑する。彼らの正体が読者でしかないことは、彼らが戻っていく今日のリストが証明している。
これらすべての今日を持つ特定の個人が「わたし」に質問したわけではないことは明らかだろう。ここには川上未映子のイメージした凡庸な「読者」がいるだけのことだ。そうしたものどもをまず払いのけてから「わたし」の話は始まる。
どうやら彼女は毎日のようにデパートに通い、高級ブランド品を購入しているらしい。スック、アディクション、ナーズ、マックと聞きなれないブランド名がずらずら羅列される。これが「わたし」の今日、あなた方の今日は「書類、会議、挨拶、エクセル」と喧嘩腰はまだ続いているのだ。
川上未映子は少し意地が悪い。たとえば「ティファニーとカルティエとヴァン・クリーフ&アーぺル」と書いてみる。それは「ハリーウィンストン」「ブルガリ」ではなく、という意地悪だ。「書類、会議、挨拶、エクセル」であって「書類、会議、挨拶、パワポ」ではないという計算でもある。
年寄りはもう、「アーぺル」なのか「アーベル」なのか見えないでしょうと云いたいのだ。
なんでそんなに喧嘩腰?
その前に「わたし」は何故か死ぬ気満々だ。
タイトルのシャンデリアはいつか訪れる理想郷でも素敵な飲み物でもなく、「わたし」にとどめを刺す凶器だ。「わたし」にはいつも死のイメージが付きまとっている。
今回の「わたし」はスマートフォンを取り出してツイッターをチェックする。インスタじゃないんだというところで「わたし」がもう若くはないことが解る。「わたし」は恋愛のことも仕事のことも夢のことも呟かず、容姿のことしか呟かない若い女の子だけをフォローしている。
こんなテーゼは案外「わたし」の本音なのかもしれない。
しかし彼女が美しいかどうかはまだ解らない。
三年前まで彼女は派遣の仕事で二十万円程度稼いでいた。二十年近く会っていない母親は七十歳で死んだ。一人暮らしの部屋で腐乱死体になった。それからしばらくして思わぬ音楽印税で金持ちになった。
あえて『春のこわいもの』から遡って読めば、ここには圧倒的な孤独と、そして母の不在がある。
『花瓶』には娘は現れず、『娘のこと』の母はまるで架空の設定のようだ。そして『彼女と彼女の記憶について』の「わたし」のぎすぎすした感じと凄まじく何かが欠けている感じの正体は分かりやすい母の不在なのではなかろうか。
母を認めることも出来ず、母になることもできない「わたし」の喧嘩腰は突然の言いがかりのようにある金持ちの老婆に向けて発射される。最初はべた褒めして近づき、奇妙な作り話をする。
そんな母はどこにもいない。死んで腐ったのだ。「わたし」は老婆からプレゼントまで受け取って置いて別れ際に突然こんなことを出だすのだ。
女優でもあるまいに、よくもまあ練習もなしに突然こんな振る舞いが出来たものだ。さすがにこの言葉に読者はたじろぎ、気を取り直すためにお洒落なインスタグラムでもちらりと見たに違いない。
彼女は別のタクシーに乗り込み、泣いた。タクシーの運転手は女だった。また女だらけだ。「わたし」が四十六歳で三年前母が七十歳でなくなったとしたら……さして面白くもない数字が計算されたころ、「わたし」は財布と電話以外の持ち物を全てタクシー運転手にプレゼントしてしまう。
そして都合のいいことを考える。
彼女にとって都合のいいことは全てが元に戻ることだ。当然彼女は認知バイアスの中にいる。彼女が金持ちになったから母が死んだわけではない。タクシー運転手にカルティエのイエローゴールドのタンク・アングレーズを差し出し、バーキン25のローズサクラを差し出しても母は戻らない。彼女が突然金持ちになったから母親が死んだわけではないのだ。この二つの出来事には何の関連性もない。そんなものは虚偽の原因の誤謬でさえない。
おそらく母になれない怨念のようなものがここにおんねん。だからこわいねん。
[付記]
結局老婆からは「若い人」「若く見える」とは言われるものの「わたし」の容姿が美しいのかどうかわからなかった。
そういえば『彼女と彼女の記憶について』の「わたし」も女優という刷り込みで誤魔化されてしまいそうだが、美しいとかスタイルがいいとは褒められていない。
この辺りが川上未映子の曲者らしさということか。