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三島由紀夫の『金閣寺』を読む⑦ 不自由な凡庸さを巡って書かれた青春小説の金字塔
いよいよ最終章、第十章に入る。結末は解っているのになんだかわくわくする。
大癋見 おおべしみ こんな顔。
顴骨 かんこつ 頬骨
根方 ねかた 根本
撃柝 げきたく 拍子木を打ち鳴らすこと。
儔い たぐい
あおのけに倒れ
小林秀雄との対談で、三島由紀夫はなぜ溝口を生かしたのかという小林の問いに対して、なぜかそうなったと答えている。三島は最後の一行をピシッと定めてから書くというスタイルの作家なので、この答えはなかなかに感慨深い。何度も繰り返し書いているように、『金閣寺』の結びは酒鬼薔薇君によって真似られた。三島由紀夫自身も『命売ります』で真似ている。なぜ溝口は生かされたのか、その答えが三島由紀夫の中で明確ではなかったことだけが明かである。無意識を認めない三島由紀夫の代表作が、おそらく予定外の結末を迎えてしまったという事実はこれまであまり真面目に論じられてこなかったように思う。あるいはあまり辛辣には言われてこなかったように思う。
最終章で溝口はカルモチンと小刀を買い、死の用意をする。ついでに菓子パンと最中を買う。
いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。
「あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的なことだろう!」
(三島由紀夫『金閣寺』)
三菱銀行人質事件で梅川が「月見うどん、マカロニグラタン、ポタージュスープ、ローストビーフ、シャトーマルゴーの69年ものワイン。シャトーがなければシャンテミリオンオブリオン」と差し入れの要求をしたとき、捜査員は「前半小麦粉多めやな」と思ったに違いない。ここには解りやすい空腹とずさんな見栄がある。69年はマルゴーの当たり年ではなく、サン・テミリオンはずいぶん格が落ちる上に風味が異なる。シャトーマルゴーはシャトーとは略さない。
溝口には人々が菓子パンに関してあからさまに誤解することが愉快でならないようだ。「無理にも理解しようと試みるとき」というからには、この謎が解けないことを確信していたに違いない。三島自身、決行の朝村田英雄に電話を架けて解けない謎を拵えた。このこともさして真面目に論じられてこなかった。一応私の解釈はここに示した。
溝口は持ち物の始末の準備をして、たまたま火災警報器が故障したのを幸いに、その修理に手間取るあいだに金閣を焼く決心を固める。溝口はその決行の直前に、不意に訪ねて来た別の寺の和尚、今はなき父とは顔見知りだった禅海和尚に、つい「私を見抜いてください」と言ってしまう。その動機は見抜かれまいという余裕があって揶揄おうとしたのではなく、この期に及んで禅海和尚にだけは理解されたいと願ったからである。
ここからの和尚の答えと溝口が得た満足との間にはやはり乖離がある。和尚は溝口を真面目な良い学生に見えるといい、平凡に見えるかという問いに平凡でよい答える。溝口がさらに、
「私を見抜いてください」ととうとう私は言った。「私は、お考えのような人間ではありません。私の本心を見抜いてください」(三島由紀夫『金閣寺』)
…と問い詰めるのに対して和尚は晴朗な笑い声を立てて、見抜く必要はない、みんなお前の面上にあらわれておる、と答える。その言葉を得た溝口の述懐が奇妙である。
和尚はそう言った。私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白めがけて浸み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。(三島由紀夫『金閣寺』)
つまり私は真面目な良い学生であり平凡なのだ、と同時に美的なものを怨敵とし、不幸者で恩知らず、独創的な破壊者で、人生から隔てられた男なのだ。いや、禅海和尚は単に溝口を理解してはいなかったのではないか。真面目な平凡な学生の上っ面の下に、独創的な破壊者が隠れていることに気が付かなかったのではないか。そのことを溝口は「完全に、残る隈なく理解された」と逆張りして捉え敢えて矛盾を拵えてみせる。しばしば三島の屁理屈には、ただ表を裏にしてみるようなやり方が見えなくなくもない。いわゆる「くそかきべらの逆説」である。
しかしこれまでくそかきべらといわれていたものが、近年、かちかちのうんこと解されているので訂正が必要か。
「乾屎橛」はここに書かれてあるように、かつては糞かきべらと訳されていました。
しかし近年の研究によって、岩波文庫の訳にあるように、「カチカチの糞の棒」だと分かりました。
三島の乾屎橛の逆説は、『仮面の告白』においては汚穢屋、糞尿汲取人になりたいという欲求として現れる。これはやはり禅にかぶれたジェローム・デイビッド・サリンジャーの描く登場人物が「死んだ猫になりたい」と嘯く程度に工夫のない逆張りである。その工夫のない逆張りが『金閣寺』という作品の中にさりげなくもなく差し込まれていたとしたらどう解釈すればいいだろう。
私はこのことを観念の空中戦、屁理屈と屁理屈の止揚、乾屎橛の逆説と呼びながら、だからといってそれを根本的な瑕疵だとは微塵も感じていないのである。真面目な良い学生であり平凡なのだ、と認められて「完全に、残る隈なく理解された」と受け止めること、この公案にも答えはなかろう。やはり『金閣寺』は趙州の不在によって成立した小説であり、禅なのだ。
溝口が何故金閣を焼いたのかと言えば、そもそもは真面目で平凡な学生が「行為」によって世界を変貌させ、隔てられていた世界を取り戻すためだったと言ってよいだろう。しかし溝口は自分の行為はぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識だという考えに至る。実際には行為は余剰物となる。最終的に溝口を動かしたのは逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在という臨済録の文言である。この言葉が溝口を無力から弾き出し、あえて徒爾を行わせる。
吃りは、いうまでもなく、私と外界のあいだに一つの障碍を置いた。(三島由紀夫『金閣寺』)
何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではなかろうか。(三島由紀夫『金閣寺』)
こんな凡庸な少年が青年となり、自分を「天才的犯罪者」だと思い込むことほど凡庸なことはなかろう。それはサラダ油で人を焼こうとするくらい愚かで抒情的なことだ。これ以上はないだろうという凡庸な人生を生きてきた私だから解る。私の冷蔵庫にはいつもほろ苦い凡庸が冷えている。『金閣寺』はまぎれもなくある不自由な凡庸さを巡って書かれた青春小説の金字塔である。金閣なのにピラミッドである。かちかちのうんこの塊ではない。
了
※百冊くらい本買ってね。↓
【余談】
しかしながらこの如来という言葉が、仏教の伝統の言葉とは違うかもしれませぬが、さながらにそこにあるものであります。そういうものがそれが如来であります。それがただ人間だけではありませぬ。動物でも、植物でも、こういうものでもみなこれが如来であります。「仏とはなんぞや」「乾屎楔」かわいた馬糞であると答えた禅宗の坊さんがあったはずであります。「仏とは何であるか」「かわいた馬糞である」これはとっぴな言葉ではなくして、私はほんとうだと思います。馬糞もまた如来である。ただこれに気づくと申しましても、気づくということは心の底から気づくことでなければならぬ。気づくと申しますのは信心の目を見開いた。あるいは仏の目を開いたいわゆる開眼であります。そのときその人間は仏さまであります。それが私の信仰であります。(倉田百三『生活と一枚の宗教』)
これが昭和三十八年には出版されていることから「くそかきべら」は早々に改められていたような感じがなくもない。乾屎橛の説明はないが、
「石段をあがると、何でも逆様だから叶かなわねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂えは気狂えだろう。――さあ剃れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「咄この乾屎橛」
「何だと?」
青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。(夏目漱石『草枕』)
でも「何でも逆様」と揶揄われている。この橛の字、春陽堂の版では極とされている。
【余談②】
戦争が始まりました。
— 在日ウクライナ大使館 (@UKRinJPN) February 24, 2022
国際社会にサポートを願います。
いや、そんなことをしている場合か。
こんな感じだろ。
He isn’t behind me is he?!
— Reg Saddler (@zaibatsu) February 25, 2022
📸 by krystalklear IG#octopus pic.twitter.com/RDveHrSqmj
茨城県に頑張ってもらいたい。
【余談③】『大工たちよ、屋根の梁を高く上げよ』
万が一再び平和になったら、死んだ猫にでもなりたいと願っていると答えた。 (P.230)
これがシーモアの信条である。
今夜ぼくはミュリエルに、禅仏教で、ある禅師がこの世のなかで一番貴重なものは何かと聞かれて、死んだ猫と答えたが、その心はだれにも値のつけようがないからだ、と教えた。 (P.231)
…なんて書いている。死んだ猫には一時的な株価の値上がりという意味があるってもう書いたっけ?
それにしても戦争って、どうしたらなくなるんだろう。物凄く頭がいいと威張っている人は、いまこそ力を見せて欲しい。何もできないなら、さっさと兵器開発に知性を振り向けるべきなのか???
【余談④】案外マッチとかがわからなくなる。
三島の語彙に感心しながら、一方で消えていつた事物や消えそうな事物が気になる。
確かに巻き戻し、やダイヤルを回す、は解らなくなる。ビールの栓を抜くとき王冠をコンコンやるのも、それこそ「お酌」がわからなくなるかも。ある大学の前を歩いていたら、学生らしき青年の誰一人としてジーパンを履いていないことに気がついた。
もしかしたらまもなく中二病もなくなり、凡庸な少年が青年となり、自分を「天才的犯罪者」だと思い込むことも寧ろ珍しくなるのかもしれない。コンプレックスのない、つるんとした本当にいい子がすくすくと育ち、アプリで起業し、フルリモートで稼ぐ時代になれば『金閣寺』は本当に訳の解らない頭の可笑しい話になってしまうかもしれない。