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筵帆の疑心暗鬼な雲雀かな 夏目漱石之俳句をどう読むか168

筵帆の真上に鳴くや揚雲雀


 岩波の解説に「筵帆」の説明はない。それは文字面から何となく想像できるものとそう大差ないものではあるが、はっきりさせたいのはそれがこの時代、明治二十九年の日本ではあまりに古めかしく、おそらくは実際に使用されていなかったものであるということだ。


水上語彙 幸田露伴 著智徳会 1897年

 従ってこれは(絶対にそうだとは言わないがおそらく)あえて古色、あるいはことさら鄙びた味わいをつけた想像の句である。

明治俳家句集

 俳人八重桜は島根の人なので、北海道、蝦夷地を中心とした数の子船、鰊船には縁がなかったはずだ。大体「数の子船」なんて言葉を使っているのも彼くらいだから、数の子にひれが生えて泳いでいるとでも思いこんでいたにちがいない。


漱石全集 第14巻

 さて漱石のこの句は、「物草の太郎」の句のに比べると「真上に鳴くや」がありきたりに間延びしている感じがしてしまう。何故なら雲雀はたいてい高いところで鳴いているものであり、揚雲雀というのは雲雀に片栗粉をまぶしてゴマ油で揚げたものではなくて、舞いあがりながら鳴いているものだからである。そして「上」と「揚」がくどく重なっている感じがしてしまうからである。全裸のフリチンと言っているようなものである。高いところで鳴いている雲雀なんてものは今後誰にも句にしてもらいたくないと強く思う。そんな句は何の役にも立たない。チリ紙とも交換してもらえない。

 どうせ雲雀を鳴かすなら空の上でないところで鳴かせてほしいものだ。

揚雲雀三日三晩の野菜室

比例区は信頼できる揚雲雀

揚雲雀牧野ステテコ二合炊き

川船にとまりて見たる雲雀哉


 漱石はこのnoteが読めるらしい。さすがはタイムトラベラーだ。雲雀は飛ばないで休んでいる。そうそう。そのくらい惚けていいんじゃないかな。そう、飛んでばかりいたら雲雀も疲れようというもの。

 とはいうものの前の句のふりに対してそのまま落としたという句。

落つるなり天に向つて揚雲雀


 そしてこれがよく分からないひねり。天井に逆立ちしていなさいと言う意味なのか。そういうことだとやはり言い換えただけで単なる揚雲雀なので、雲雀一羽一羽の個性や鳥権を尊重しない全体主義的な句と言わざるを得ないこともないが、片栗粉をまぶしてゴマ油で揚げない分はずいぶん紳士的とは言えなくもない気がしなくなくもない。

 物体が天に落ちないのはその物が空気より重く地球に引力が働いている物理法則の結果である。それを無視して天に落ちるというのは、科学を理解しない無知なる人の言い分である。あるいは漱石は空気より軽い雲雀を発見したのか。

 なら偉いことだ。

 しかしまあこれも疲れた脳の言葉遊びであろう。

[余談]

 どうも「顰に倣う」以降疑心暗鬼になっていけない。




 ほらね。

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