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川上未映子の『娘のこと』のどこがこわいか?

 大体小説には嘘が書いてある。そして少しだけ本当のことが混ぜられている。あるいは『娘のこと』には女性の本当のこわさが詰め込まれている。そこには村上春樹が求めるような巫女的な慈愛はなく、本能の乗り物のような「年齢」としての女性が生なましく詰め込まれている。

 しかし物語はまた「電話」に関する違和感から始まる。何年も音沙汰のない昔の親友から突然電話がかかってくる。どうも納得がいかない。いったい何のために電話をかけてきたのだろうと考える。二人の関係性を高校時代から回想する。電話は続いている。

 感染症の世間話が何周かして、もう後が続かないという雰囲気になったとき、美砂は、よしえちゃんのお母さんは元気にしているの? と訊いてきた。
「最近は会ってないけど、元気だよ。時期が時期だから気をつけてねってこないだ電話で少し話したけど」

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 これは恐い。

  美砂杏奈は「よしえちゃん」と下の名前で呼んでいるのに、「よしえちゃん」は美砂杏奈を美砂と苗字で呼んでいる。これはつまり森林太郎を「モリリン」と呼ぶような態度で、いささか相手を突き放している。

 それに「よしえちゃん」は後でこんなことを言い出さなかったか。

「嬉しいなあ。でもうちの母、ベジタリアンなんですよね」
 ベジタリアンという言葉をじっさいに会話につかったの今が初めてだな、と思いながら、そしてこんなことは何も大したことではないのだからと自分に言い聞かせながら、わたしは急激に熱くなっていく頬を押さえて、何度も唾を飲み込んだ。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 ベジタリアンが嘘ならば「こないだ電話で少し話したけど」も嘘だろう。「こんなことは何も大したことではないのだから」と「よしえちゃん」は嘘を繰り返していないか。美砂がここでチャンスをつかんで道を切り開くかもしれないという予感がしたら「ここは全然だめたと思うよ」と云い、美砂の母親には「一応(作家)デビューっていうか、決まって」とでまかせを云う。

どのバイト先でも疎ましがられ、知りあいはいてもひとりの友達もいないわたしが話をできる相手は美砂以外にもうずっと、ネコさんただひとりだったからだ。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 やっぱり母親とも電話をしていないじゃないか。そして「どのバイト先でも疎ましがられ」とはどういうことだ。それは職場の問題ではなく、「よしえちゃん」の性格に大いに問題があるということだ。つまり、親友の成功を望まず足を引っ張り、見栄を張る嘘つきだからではないか。

 それに美砂がろくでもない年上の彼氏を作ることには文句を言いながら、「よしえちゃん」は友達どころか、一度も男を作ろうとさえしなかったんじゃないのか。

 ネコさん、わかった? あなたの娘より、わたしの母の娘のほうがすごいんだよ。わたしの母の娘のほうが、すごいの。わかりましたか! わたしはネコさんの鼻先に人差し指を立てて、はっきりとそう言ってやったような気がした。それは全身に鳥肌がたって、危うく身悶えしてしまうほどの快感だった。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 すごい。すごい悪い娘だ。しかし本当に凄いのは美砂杏奈なのかもしれない。

「よしえちゃんって、ほんと、すごく優しいよね、昔から……いつもわたしのことをかんがえてくれてたなって。いつもわたしのことを想ってくれていたよね。ずっとずっと、応援してくれた。いつも、見守ってくれてた」
 美砂はうっとりしたような声で言った。
「わたし、忘れたことないからね」

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 元親友に「感染症予防の効果もある」という謎のオイルを売りつけておいて美砂杏奈はこんなことを言う。忘れたことがなければ電話はもっと早くかかってきたことだろう。美砂は「いわゆるスピリチュアル系の勧誘をしてくる人にありがちな雰囲気とは肝腎なところが違っている」ような感じがあった。それはつまり、相手を騙す気満々なのではなく、騙せてしまうという特別な才能なのではないか。

 あるいは大きな貸しを作らせておいて追い詰める。『娘のこと』は電話でオイルが売りつけられる話だ。しかし怖いのは電話ではない。本当に怖いのは、女の醜さをとことん抉り出す大阪のおばちゃん、川上未映子だ。「よしえちゃん」は謎のオイルを買わねばならないほど「こわい」ものを抱えている。

 母親と電話をしたと云うのが嘘ならば、もし「よしえちゃん」に母親がいて、まだ生きているとするならば、何故彼女は「よしえちゃん」に電話をかけてこないのだろうか。それは彼女が『娘のこと』に一切関心がなく、どのパート先でもろくでもない男と寝てしまうような「雌」だからではなかろうか。

 一切男の気配のない「よしえちゃん」が仮にそのだらしのない母親の裏返しならば、天然食品に拘っていたネコさんの娘が謎のオイルを売るようになるのも不思議なことではない。


 娘には大抵母親の印が刻まれているものである。

 


[余談]

 2022年2月25日に出た『春のこわいもの』は書き下ろしだそうだ。一日遅れていたら「事件」みたいでこわい。


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