『羅生門』の出版パーティで書かれた「本是山中人 愛説山中話」が案外芥川龍之介の座右の銘のようなものではないかと考えた時、下人、多襄丸と続いた太い山中の人の系譜を見届けたくなる。繰り返し書いているようにそれは『或阿呆の一生』では完全に姿を消すものだ。『歯車』『河童』を探しても無駄だろう。
この「わん」が太宰の「わん」に繋がるというのが私の自説であるが、その話は別の機会に譲ろう。この保吉ものが中期芥川作品の箸休めであろう。ここで主計官と乞食の関係を傍観する保吉は当事者性を放棄して、『羅生門』に見られたような単純にして差し迫ったものから逃れている。平たく言えば保吉は乞食でもなく、乞食に「わん」と言わせようとする主計官でもない。
盗人を捉え損ねてあべこべに海に放り込まれた大浦に対して保吉はあくまで冷ややかである。芥川はもう下人や多襄丸の立場に身入れすることが出来ない。そういう太い者たちに振り回される者たちに冷ややかな視線を向けるだけだ。とても「本是山中人 愛説山中話」ではない。
いや先走り過ぎた。なんなら芥川龍之介はもうお陀仏しているので焦ることはないのだ。じっくり見ていこう。あちこちから酷評された『手巾』ではどうだろう。『手巾』は「新渡戸稲造をモデルに西と東の問題を取り上げた作品だった」(『芥川龍之介 闘いの記録』関口安義)とされる。
こう書かれてしまうと確かに新渡戸稲造でしょうというよりない。植民政策、武士道、キリスト教、奥さんがアメリカ人…このさして工夫もなさそうな思索に突然芥川らしい難解なロジックが挟み込まれる。
このロジックから日本の女の武士道だと賞讃した西山篤子の悲しみをこらえる型が見え、その悲しみが疑われるという話であればなんということはないのっぺりした話になってしまう。
それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物か、とは何か。それは「皇室と人民との関係」であり、岐阜提灯ならぬ「朝鮮団扇」ではなかろうか。日韓併合が明治四十三年、明治四十五年には北京政府が成立する。下関条約によって明治二十八年から台湾は台湾総督府の支配下にある。ウイルヘルム第一世が、崩御し子供が泣き止まない。
ウイルヘルム第一世は明治二十三年の昔である。比較されるのは明治天皇の崩御であろう。明治天皇の崩御で子供が泣いたという話は聞かない。『手巾』の書かれた大正五年(1916年)は第一次世界大戦の最中である。前年対華21ヶ条要求がなされている。さらにその前年にはシーメンス事件が起きていた。大正二年(1913年)は大正改変が始まる。今から考えると極めて剣呑な時代であった。西と東の問題はまさに芥川龍之介の現前にあったのだ。今でこそ解り難くなっているが平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かとは当時の読者には明確に「西と東の問題」ではなかっただろうか。
そんなことを昔話に隠すことなく、あからさまに書いてしまう芥川龍之介の太い型に対して、評価は分かれる。田山花袋は「何処が面白いのか」(『芥川龍之介 闘いの記録』関口安義)と酷評している。