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川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』のどこがこわいか? ⑥寝室が一階だからこわい

 ウィステリアは死に、「わたし」は目覚める。

 目覚める?

 仰向けになっていて、自意識を喪失し、目を開けたのだから眠っていたのだと言われても文句は言えまい。大抵の人は仰向けになり、目を閉じて、今この場にいる自分というものを忘れてしまうことによって眠るのだから。そして眠っている間に眺めている景色は夢という短い言葉で括られる。それにしても不思議なのは、夢など本当に個人的な体験で、決して誰かと共有することはできないし、克明に語りえるものではないにもかかわらず、そんなものがあるということ自体は誰にも疑われることがないというこの世の成り立ちだ。

 良い出来事があれば夢のようだと言われる。悪い出来事があれば夢であって欲しいと願う。表向きに夢は現実の対極に置かれる「なかったこと」だ。しかし人間はそんなにかっちりとした生き物ではない。夢と現実との間には和集合ほど明確ではないものの、お互いに何か足りないものを補い合うような微妙な関係性というものが間違いなくあるのだ。人は眠らずには生きられない。眠りは脳を持つ生命の特徴ですらない。そういう意味では「なかったこと」はこの現実を成立させるための必須要件なのだ。

 とにもかくにも「わたし」は「なかったこと」、あるいはあちら側から戻ってくる。あるいは半分壊された家から。

 玄関でスニーカーを脱ぎ捨て電気もつけずに階段を上がり、キッチンへ行って食器棚からグラスを出し、水道水をたてつづけに二杯飲んだ。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 靴はスニーカーだった。ヒールではなかった。ざうりでもなかった。それもそうだ。半分壊された家に忍び込むのにヒールでは不用心だ。それなのに彼女は水を用意していかなかった。だから水道水をたてつづけに二杯飲む羽目になる。エビアンでもボルヴィックでもアクアクララでも富士山の天然水でもない水道水をたてつづけに二杯飲む「わたし」は確かに雑巾で拭き掃除をする専業主婦だ。マノロのヒールなんて持っていないだろうし、たとえ持っていたとしても履いていく場所がないだろう。

 あるいは「わたし」はいまだに水を買うことができない人なのかもしれない。最悪でも炭酸が入っているか、何か色か味がついてでもしないとそれを飲み物としてお金を払ってまで手に入れたいとは考えないタイプなのではなかろうか。夏になれば冷蔵庫には二リットルの麦茶を用意するような、つつましい女なのではなかろうか。スニーカーだって精々アディダスかナイキで、グラスはしもた屋の前に並べられた「どうぞご自由にお持ち帰りください」の中から比較的綺麗で丈夫そうなものを選んだのかもしれない。

 それにしても川上未映子はひどいことをする。スニーカーを後出ししてくるなんて。それなら「わたし」が坊主頭で眼帯をしていても構わないことになってしまう。勿論このスニーカーは「ふり」である。マノロのヒールからして「ふり」だったのだ。

 ということは夫の嘘とは男性との浮気? 夫はそっちの人?

「こんなに遅くまでどこにいたんだよ」
 夫の声だった。 

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 完全に間違えている。「わたし」は震えながら肘をさすりシンクを摑んで立ち上がったところなのだ。そこでまず言うべき言葉は「大丈夫?」だろう。大丈夫とは大きな男の人のことだ。大丈夫? とはけして大丈夫に見えない人にかけられる矛盾した意味のない言葉だ。「大丈夫に見える?」と返せば途端にギスギスしてしまう危険な言葉だ。しかしここで夫が「わたし」にかけるべき言葉は「アーユーオッケー?」ではない。

 夫はただ暗闇にぼんやりとした影の塊としてそこに浮かんでいるだけだった。それをじっと見つめているうちに、そもそも夫がどんな顔をした人間だったのかもあやふやになっていった。どんな背格好で、どんな髪型をして、どんな声をしたどんな男だったか、だんだんわからなくなっていった。この男は誰なのだ? この影はどうして私に話しかけているのだ。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 出たよ。やるやると思っていた。だからそうなんだ。川上未映子は夫の背格好や髪形を説明していなかった。それどころかただ外資系の製薬会社の営業マンというだけで、ジョンソンアンドジョンソンともグラクソスミスクラインとも言わなかった。髪はアフロで顔は面長、早口で冗談が美味くて北海道出身だとも書かなかった。ここまでうまく騙してきた。夫はそもそも影のような存在だった。野菜炒めを食べ、ビールを飲むというだけの、まるで「夫」という記号のような存在だった。

 例えばそれはATMや精子提供者にも置換可能な記号ではなかったか。冷蔵庫の余り物で作られた名もなき料理のような、あるいはろくになんの宣伝なのかと確認もされないで捨てられるチラシのような夫、そんなものにいまさら顔があっても仕方ない。アフロでも禿でも関係ないのだ。大丈夫が言えないのだし、もう精子も提供しないのだから、ミサイルが飛んで来る度に断じて容認できないとだけ繰り返す人より役に立たない。

「答えられないの?」

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 問いかけはまだ続いていたのだ。影ごときの。『君たちはどう生きるか』の感想じゃないんだからそりゃ答えようとすれば答えられるんだろうけど、そもそもあれだな。夫は漢字ではなく音で質問しているのだから「堪えられないの?」と質問されたと勘違いしてもおかしくないな。

こたえ‐られ‐ない【堪えられない】コタヘ‥ 我慢しきれない。転じて、大変こころよい。たまらなくよい。

広辞苑

 そんなにいいの?

 たまらんの?

 そう訊かれていたとすれば、答えようもあっただろう。

「なんだよ、それ」
 夫の視線を追ってわたしは自分の体を見下ろした。
 雨に濡れたわたしの体には、無数の白いものがひしめいていた。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 それは藤の花びらだった。「わたし」はそこで非論理的にウィステリアと直結する。まるで一人称と三人称が入り混じった不思議な語りの中ですっかりウィステリアの記憶と意識が重ねられた責任を負うように、「わたし」は藤の花びらまみれになっている。

 川上未映子はここで意識的に「白いもの」と書き、「ひしめき」と書き、ほんの一瞬にょろにょろくんを想像させようと図ってはいまいか。

「おまえ、誰なんだよ」今にも消え入りそうな声で、夫は言った。
「知らない」わたしは言った。
「もう、あなたとは関係ない」  

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 そう。われわれは「わたし」が誰なのか知らない。実家とも縁がなさそうな、話相手のいない専業主婦。雑巾で拭き掃除をして、水道水を飲む三十八歳の女。子供ない女。そんなありふれた名前のない女でもあり、「なかったこと」の世界ではウィステリアと意識が重ねられる女。

 ただ女であることだけが確かで何もかも曖昧だ。これは読者の意識そのものだろう。男性が読めばいつの間にかおちんこが取れてしまうかもしれない。

 寝室は一階にある。キッチンは二階なのに。これはオープンハウスによって建てられた狭小住宅を巡る悲劇の物語である。「わたし」には誰かが呼ぶ声が聞こえる。それが黒沢こずえの声でないとすれば、ウィステリアと呼ばれた老女の存在しえない娘への呼びかけにほかならないだろう。ここでウィステリアと三人の女たちの三人から腕の長い女は降格し、ウィステリアと英語教師とその娘、そして存在しえないウィステリアの娘と「わたし」と介護士の、ええと、いち、にい、さん、よん……介護士は外れて貰って、ウィステリアと英語教師とその娘、そして存在しえないウィステリアの娘と「わたし」の布陣が完成する。

 何故ならウィステリアを中心に考えれば、ウィステリアと腕の長い女は出会ってさえいないのだから。

 ん?

 ということはむしろウィステリアと英語教師とその娘、そして存在しえないウィステリアの娘(わたし)と介護士で、「わたし」はけして存在しえない女と女の間に妄想された女?

 こたえ‐られ‐ない。


[余談]

 反専業主婦小説と云う見方も出来る。

 しなくてもいいけど。


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