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福田恆存の『芥川龍之介と太宰治』をどう読むか⑪ 君記憶は確かか?

 さきに芥川龍之介が善悪両極間の真空地帯を埋めようとしたと申しましたのは、要するにかれがその転機を描こうとしたという意味にほかなりません。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 いやそしたら「人間のうしろ姿の寂しさ」にはならんやろ。寂しさということは黄昏とるわけやないかい。つまり村上春樹的喪失感やろ。

 要するに革命はならなかった。みんなが幸せになれる社会は来なかった。革命家の言っていたことは嘘だった。で、ビールを飲んで黄昏る。

 実際は芥川は村上春樹とは違うで。でも「人間のうしろ姿の寂しさ」って人間と向き合っていないのでデタッチメントやんか。つまり福田君の言い分は最初諦めとる感があるで。

 してからが「その転機を描こうとした」って「人間のうしろ姿の寂しさ」とちゃうやん。やる気あるやん。

この後ろ姿を――さっと風が吹き立ったあとの人間のうしろ姿の寂しさを――読みとらぬとすれば、われわれは真に芥川龍之介の作品を読んだとは言えぬのであります。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 君こう書いたよね。なんかズレとらん?

 そして神のないわれわれ日本人にあって、もしそれが可能であるとすれば、私小説はもとより、本格的なリアリズムでもだめで、ただ伝説的な架空の物語による以外にはないのであります――すくなくとも芥川龍之介の時代においてはそうだったのです。なぜなら、かれこそ、その真空地帯に気づいた最初の作家だったからです。いや、厳密にいえば、鴎外と漱石がそのまえにいました。が、この両大家においては、芥川龍之介におけるほど空気は希薄になっていなかったといえましょうか。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 本当かなあ?

 つまり「かれこそ、その真空地帯に気づいた最初の作家だったからです」と言い切れるほどに明治の作家を読みつくしたのかなあ?

 小説が「何を書くのか」という肝の部分になるのだが、骸骨の見立てによれば、善玉と悪玉の対決は山東京伝の創意だという。これは本居宣長が『源氏物語』に「もののあはれ」という文学の本意を見出したことに並ぶ、大発見なのではなかろうか。
 ではそれ以前の軟文学が何を書いていたのか、例えば小瀬甫庵道喜の『信長記』『太閤記』などは英雄伝であろうし、安楽庵策伝の『醒睡笑』はしゃれた落とし噺、公家の烏丸光廣卿は……とやっている時間がないので少し端折ると、井原西鶴はエロ小説家で、そこには勧善懲悪などという骨法はなかった。

https://note.com/kobachou/n/n9e7bf50e43ac


 むしろ福田君の言う善悪は山東京伝が分裂させたもので、それ以前というのは混然としていたのではないかな。

 で芥川にに近いところでいえば谷崎がとにかく最初は「悪さ」というものに特化して書いていた。谷崎を見るとやはり私小説家とも呼ばれぬのに、これでもかと「悪さ」を書いて「悪魔的」などと自慢していて、一見馬琴の反対をやっているようなところが見えないでもない。確かに悪いと言えば悪いのだが、「コンクリ殺人」のような悪さでもないんだね。そして思うのは谷崎も「人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる」ところの眼はもっていたのではないかと。しかし悪い方に特化して書いたと、そういうところがあるように思えるんだなこれが。

 少しラフな言い方をすると「人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる」ことなんか誰にでもできると。

 この高史明さんの当時中学に入ったばかりの息子さんには人間の醜さというものが受け止めきれなかったわけだね、それで自殺してしまったと。これは本当に残念な事ではあるけれど、大人になるまでには、みんなある程度はそういうことが解っていくものなのではなかろうか。勿論人によるし、温室で育ってしまう人もいるのかもしれないけれど、特にお金で苦労するとね、そこは分かりたくなくても分かってしまうんじゃないかな。

 そして谷崎の方法は少しも善意を持たない人間というものを書き表そうとして、それが完全に成功しないところにあったのではないか。そして悪であることそのものに何の意味もないとやはり善悪の彼岸に芸術の可能性を求めているようなところがないだろうか。

 それから『素戔嗚尊』を出しておいて「神のないわれわれ日本人にあって」はおかしいなあ。日本には唯一絶対神的な信仰者はすくないというべきで、昭和二十四、五年当時としても、日本に絶対神的な信仰はあった。三島由紀夫が『英霊の声』の材料にした本は大正十年に出ている。

 この考え方は神社の中でどこが一番格上かというマスイメージとして、日本人全般に今でもうっすら伝わるものではなかろうか。

 それをまた『素戔嗚尊』を出しておいて、という意味は説明するまでもなかろう。(勿論うけいなどを論ずると別の神が現れてしまうので、ここは様々に議論されうる。ただし日本に神はいないというのは嘘で、八百万の神が平等でもない。)


霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 そしてなんでも鴎外と漱石を出しておけばいいというものでもないと思う。ほかにも作家はたくさんいたし、このテーマで無理にこの二人の名前を出してくる必要もないと思う。

 そして肝心な事言うよ。

 福田君、「伝説的な架空の物語による以外にはないのであります」って君、『お律と子等と』をどう読んだ?

 まあ『玄鶴山房』とまでは言わん。『お律と子等と』は伝説的な架空の物語ではないし、なんやら難渋しとるけど、ある意味人間の善良さというものと向き合おうとはしとるわな。「以外にはないのであります」が言い過ぎなんとちゃうか。

 君そういう癖あるなあ。そんななんでも「ほかなりません」なんてことある? 何となく雰囲気で曖昧に書くことはないかなあ? つまりかっちりかっちり決めて書くんやったら、そもそも難渋がない思うねん。書いとるうちにああこれが出口やと見えてくることもあるんちゃうかな。


「路上」とか「秋」とかいう作品をごらんなさい。龍之介が架空の物語に頼らずに素面で出てきたとき、そこではいかに空気が希薄になっているかがわかるでありましょう。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 いや、福田君、『蜘蛛の糸』をごらんなさい。あんなに空気の希薄な小説もないで。『杜子春』もそうや。何が善で何が悪やねん。『芋粥』はどうや。

 やっぱり理屈が通らんのと違うかな。

 君最初言うてるで

どの作品にもこの真空地帯を行き来する人間の空虚なうしろ姿の映像がわれわれの網膜に鮮かに残るでありましょう。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 どの作品にもって。

 つまりどの作品も空気薄い違うんか。伝記的な架空の物語は「どの」には含まれん、いうことか。どんな勝手やねん。
 あのなあ、「どの定食にもみそ汁と小鉢が付きます」って書いてあったら豚汁定食にもみそ汁つけんとあかんねん。「どの」ってそういう意味やねん。 

 そんなもんもうちょっと整理して書いたらええことやんか。

 芥川の作品にはこれこれの区分があると。それぞれの違いはこうであると。それでもって作品全体を総括したらこうであると。

 おっちゃん今な、その手前で各作品必死に読んどるねん。で半分くらいは分からんねん。不思議なんはなんでそんなでたらめの理屈を平気で書けるねん。

 おっちゃんの言うてることおかしいか?

 どの作品にも……ほかならないって言うとけば格好いいんか。

 なんとなくなあ、意図は分かる。つまり芥川を私小説家とは違う方法論を持った作家として区別したいからなにかうまい理屈を探しているわけだ。しかしなんぼなんでもこれはいかんわ。

 例えばなあ『蛙』はどうや。

 これも善悪の話しながら真空地帯というより、両方ががっちりと絡み合っていないか。そして寂しそうな人間の後ろ姿は見えんのと違うか。寂しいのとは違う、いわばグリム童話的からっとした残酷さやね。これを寂しい言うたら違うと思うわ。おっちゃんは。

 福田君はこれにも寂しい後ろ姿が見えるんか?

 ほんまに?

 ならこれはどうや。『寒山拾得』。

 これ、おっちゃんの好きな作品やねん。福田君はこれも寂しいんか。変わっとるな。

 ならこれはどうや。

 いい加減「間違えましたって」謝りなさい。色んな作品がありますって認めなさい。人間何時でもやり直せる。

 ああ、君はもう無理か。

[余談]

 ほかならないと書く人、たいていあかんね。すべてがあほにほかならないとはいわないけれど。

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