福田恆存の『芥川龍之介と太宰治』をどう読むか⑪ 君記憶は確かか?
いやそしたら「人間のうしろ姿の寂しさ」にはならんやろ。寂しさということは黄昏とるわけやないかい。つまり村上春樹的喪失感やろ。
要するに革命はならなかった。みんなが幸せになれる社会は来なかった。革命家の言っていたことは嘘だった。で、ビールを飲んで黄昏る。
実際は芥川は村上春樹とは違うで。でも「人間のうしろ姿の寂しさ」って人間と向き合っていないのでデタッチメントやんか。つまり福田君の言い分は最初諦めとる感があるで。
してからが「その転機を描こうとした」って「人間のうしろ姿の寂しさ」とちゃうやん。やる気あるやん。
君こう書いたよね。なんかズレとらん?
本当かなあ?
つまり「かれこそ、その真空地帯に気づいた最初の作家だったからです」と言い切れるほどに明治の作家を読みつくしたのかなあ?
むしろ福田君の言う善悪は山東京伝が分裂させたもので、それ以前というのは混然としていたのではないかな。
で芥川にに近いところでいえば谷崎がとにかく最初は「悪さ」というものに特化して書いていた。谷崎を見るとやはり私小説家とも呼ばれぬのに、これでもかと「悪さ」を書いて「悪魔的」などと自慢していて、一見馬琴の反対をやっているようなところが見えないでもない。確かに悪いと言えば悪いのだが、「コンクリ殺人」のような悪さでもないんだね。そして思うのは谷崎も「人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる」ところの眼はもっていたのではないかと。しかし悪い方に特化して書いたと、そういうところがあるように思えるんだなこれが。
少しラフな言い方をすると「人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる」ことなんか誰にでもできると。
この高史明さんの当時中学に入ったばかりの息子さんには人間の醜さというものが受け止めきれなかったわけだね、それで自殺してしまったと。これは本当に残念な事ではあるけれど、大人になるまでには、みんなある程度はそういうことが解っていくものなのではなかろうか。勿論人によるし、温室で育ってしまう人もいるのかもしれないけれど、特にお金で苦労するとね、そこは分かりたくなくても分かってしまうんじゃないかな。
そして谷崎の方法は少しも善意を持たない人間というものを書き表そうとして、それが完全に成功しないところにあったのではないか。そして悪であることそのものに何の意味もないとやはり善悪の彼岸に芸術の可能性を求めているようなところがないだろうか。
それから『素戔嗚尊』を出しておいて「神のないわれわれ日本人にあって」はおかしいなあ。日本には唯一絶対神的な信仰者はすくないというべきで、昭和二十四、五年当時としても、日本に絶対神的な信仰はあった。三島由紀夫が『英霊の声』の材料にした本は大正十年に出ている。
この考え方は神社の中でどこが一番格上かというマスイメージとして、日本人全般に今でもうっすら伝わるものではなかろうか。
それをまた『素戔嗚尊』を出しておいて、という意味は説明するまでもなかろう。(勿論うけいなどを論ずると別の神が現れてしまうので、ここは様々に議論されうる。ただし日本に神はいないというのは嘘で、八百万の神が平等でもない。)
そしてなんでも鴎外と漱石を出しておけばいいというものでもないと思う。ほかにも作家はたくさんいたし、このテーマで無理にこの二人の名前を出してくる必要もないと思う。
そして肝心な事言うよ。
福田君、「伝説的な架空の物語による以外にはないのであります」って君、『お律と子等と』をどう読んだ?
まあ『玄鶴山房』とまでは言わん。『お律と子等と』は伝説的な架空の物語ではないし、なんやら難渋しとるけど、ある意味人間の善良さというものと向き合おうとはしとるわな。「以外にはないのであります」が言い過ぎなんとちゃうか。
君そういう癖あるなあ。そんななんでも「ほかなりません」なんてことある? 何となく雰囲気で曖昧に書くことはないかなあ? つまりかっちりかっちり決めて書くんやったら、そもそも難渋がない思うねん。書いとるうちにああこれが出口やと見えてくることもあるんちゃうかな。
いや、福田君、『蜘蛛の糸』をごらんなさい。あんなに空気の希薄な小説もないで。『杜子春』もそうや。何が善で何が悪やねん。『芋粥』はどうや。
やっぱり理屈が通らんのと違うかな。
君最初言うてるで
どの作品にもって。
つまりどの作品も空気薄い違うんか。伝記的な架空の物語は「どの」には含まれん、いうことか。どんな勝手やねん。
あのなあ、「どの定食にもみそ汁と小鉢が付きます」って書いてあったら豚汁定食にもみそ汁つけんとあかんねん。「どの」ってそういう意味やねん。
そんなもんもうちょっと整理して書いたらええことやんか。
芥川の作品にはこれこれの区分があると。それぞれの違いはこうであると。それでもって作品全体を総括したらこうであると。
おっちゃん今な、その手前で各作品必死に読んどるねん。で半分くらいは分からんねん。不思議なんはなんでそんなでたらめの理屈を平気で書けるねん。
おっちゃんの言うてることおかしいか?
どの作品にも……ほかならないって言うとけば格好いいんか。
なんとなくなあ、意図は分かる。つまり芥川を私小説家とは違う方法論を持った作家として区別したいからなにかうまい理屈を探しているわけだ。しかしなんぼなんでもこれはいかんわ。
例えばなあ『蛙』はどうや。
これも善悪の話しながら真空地帯というより、両方ががっちりと絡み合っていないか。そして寂しそうな人間の後ろ姿は見えんのと違うか。寂しいのとは違う、いわばグリム童話的からっとした残酷さやね。これを寂しい言うたら違うと思うわ。おっちゃんは。
福田君はこれにも寂しい後ろ姿が見えるんか?
ほんまに?
ならこれはどうや。『寒山拾得』。
これ、おっちゃんの好きな作品やねん。福田君はこれも寂しいんか。変わっとるな。
ならこれはどうや。
いい加減「間違えましたって」謝りなさい。色んな作品がありますって認めなさい。人間何時でもやり直せる。
ああ、君はもう無理か。
[余談]
ほかならないと書く人、たいていあかんね。すべてがあほにほかならないとはいわないけれど。
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