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川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』はどこがこわいか? ⑤不完全なこの世界がこわい

 外国人教師は英吉利に帰ってしまう。妙な言い方だな。しかしそれは空想や妄想と呼ぶにはあまりにも堂々とした語り口で、最初に見られたような、「か」を添える曖昧さも見られなくなる。それは実に奇妙で禁欲的な、汚れた世俗と関係を断ち切って禁欲生活を送るカタリ派のような語り口なのだ。「わたし」は神に言及することはないが、この時点で肉体を欠いている。そしてデミウルゴスの不完全な創造を問い詰めるように不完全なひとりの女の半生を語る。

 ウィステリアはひとりで英語塾をつづけていた。四十代を終え、五十代の半ば頃に癌が見つかり子宮の全摘出手術を受けた。その不安もあって英語塾をやめることも考えたけれど、何かがあって外国人教師が日本に戻ってくることが万が一にもあるかもしれない——そのかすかな可能性のことを思うと、彼女は英語塾をやめることがどうしてもできなかった。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 これが「わたし」の語りならば「わたし」は殆どウィステリアそのものであるしかない。ウィステリア以外に誰も知り得ないことを回想しているかのようであるからだ。これがマイナポータルで閲覧されていたとしたら、また頭の弱い人々が個人情報の漏洩だと騒ぎ立てるだろう。自分の意識と他人の情報が勝手に結び付けられ、国民監視で、全資産把握で、ポンコツだと。しかし「わたし」の空想は歴史のナラティブのように続いていく。

 やがてウィステリアには外国人教師の訃報が届く。ウィステリアは学習塾を閉め家の中で一人で過ごすようになる。国民年金は貰っている筈だが川上未映子はそのことは書かない。国民年金の受給額はセンシティブな個人情報だと考えられているからだ。

 何をセンシティブ情報だと受け止めるか、何を恥ずかしがるかという点に関してはお国柄による差が激しい。ジェフ・ジャービスの『パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ』という本によれば、年収の公開を恥ずかしがる国柄もあれば、裸体の公開をさして恥ずかしがらない国柄もあるらしい。

 何を恥ずかしがるかという点に関しては個人差もあるだろう。

 でもそれも、体に自由がきいているあいだのことだった。数年が過ぎると、週に一度、食料品の買い出しを頼んでいた女性には二日に二度、様子を見に来てもらわなければならなかった。ウィステリアは自分の寝室からほとんど出なくなった。布団に仰向けになって、何をするでもなく、ただ時間が流れていくのを見ているだけだった。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 おそらくウィステリアは要介護認定を受けて、介護保険を利用し居住介護支援を受けているのだろう。訪問介護①の生活援助から、訪問介護②の身体介護、つまり掃除や洗濯、買い物や調理などの手伝いから、入浴や排せつのお世話というレベルに進んだ様子が見て取れる。

 しかし清拭や入浴介助の様子は描かれない。金銭的な問題にも触れられないが大きな建物に一人住まいであれば、むしろ住居を処分して施設に入るのが適当なのかもしれないが、そんな迷いも選択肢も現れない。

 ウィステリアは外国人教師の子どもが大昔に死んでしまったのは自分が存在しえない赤ん坊を望んだからだという奇妙なロジックに辿り着く。それは読者からすれば「わたし」がごく普通に夫との間に赤ん坊を望んだことをさえ咎めるような乱暴なロジックに思える。四十一歳の夫と三十八歳の「わたし」がセックスをして子供が出来たとして、そういうことを望んだとして、それが抱いてはいけない感情などである筈もないのに。

 世界中の嵐がウィステリア目がけて吹き荒れ、藤の木は揺れ続け、花弁が渦になってウィステリアを巻き込む。息が出来ない。

 ウィステリアは最期に思う。
 わたしは最初からここにいたのだ。こんなふうに、ずっと、ここに。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』)

 そんな風に川上未映子はウィステリアを殺してしまう。

 いや、実際には「わたし」が空想の中で老女の半生を勝手に物語ったに過ぎない。

 しかしいなくなった老女が実は特別養護老人ホーム 南麻布シニアガーデン アリス ユニット型個室に入居している……とはもう考えられなくなってしまっている。これが物語の力だ。

 老女がレズビアンであったという傍証さえないのに、彼女は処女のまま殺されてしまう。そしてまるでそこに生えていた藤の木の妖精であったかのように仕立て上げられ、藤の花びらの経帷子を纏わされてしまう。

 ウィステリアは男性介護士におむつを交換してもらうことさえなかったのだ。あるいは男性介護士におむつを交換してもらっていても本人にはもう荷が何だか解らなかったかもしれない。


「素枯れた莟」の残酷さを「わたし」はデブリードマンのようにえぐる。デブリードマンとは太っちょの先頭ランナーではない。いつの間にかいなくなっていただけで、ここまで言われる老女も憐れながら、ここまで空想する「わたし」の度の過ぎた残酷さが本当に怖い。

 夫がセックスしなくなっただけでこれくらい呪える「わたし」が怖い。どのくらいこわいかというと、大体おこわくらいこわい。



【余談】

 え?

 これあの……


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