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秋津建編『三島由紀夫語録』を読む③ これ、大発見ちゃう?
大変
たとへば"大變"などといふ言葉を輕々しく使ふと祖母からたしなめられたといふ。"大變"といふ言葉は、お家の大事の時のみに使ふのであつて、さうやたらに使ふものではないといふのだ。
細かいことのようだが、これは案外重要な指摘かもしれない。祖母夏子は華族的な永井家の荷風に則り、三島由紀夫を女の子のように育て、華族でもないのに無理やり学習院に入れたというのが大枠で事実として、こうした言葉遣いの注意に関してはやはり武家的な考え方というものがはっきりと表れている。
三島由紀夫は武士ではないし、武士の出でもない筈だが、やはり武士の意識というものは幼少時代から強く植え付けられていたのではないか。
珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもっている。
こうした思いは単に三島由紀夫の願望であっただけではなく、事実として割り当てられた躾けの中にあったものではないか。
例えば『憂国』において、麗子は嫁入りの際に短刀一振りを親から与えられている。離婚するときは死ねという教えである。ジョン・ネイスンの『新版・三島由紀夫—ある評伝』(新潮社 2000年)によれば三島由紀夫の母、橋倭文重は漢学者の家柄ながら、やはり決して生きて実家に戻るなと嫁入り道具として短刀を持たされている。やはりこれは武家的作法である。
こうした環境が確かに平岡家にはあり、だからこそ三島由紀夫はあんな大変なことになってしまったのではなかろうか。
羞恥心
言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大聲で主張する世の中は、自分の言論に對するつつしみ深さといふものが忘れられた世の中でもある。人々は、自分の意見——政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに發言する。「羞恥心について」
平野啓一郎のツイートが久しぶりに流れて来たけど、何故かロシアやプーチンをアベに結びつけて批判するこじつけぶりで相変わらずだなとは思う。 pic.twitter.com/dAtwbGR0Rw
— 橋本英樹 (@hashimoto914) April 12, 2022
大空なんとか君がしゃべっていると、なんとなく恥ずかしくなってチャンネルを変えてしまうということがある。
あれは何なのだろう。
自分はそう表には出ていなかったがノートにはあのくらい大きなことを書いていたからか。褌一丁で日本刀を振り回すためには相当に羞恥心をとがらせねばなるまい。
16歳男子「こういう風にはなりたくねえなあと思って。胡散臭いじゃないけど、気色悪いとも違うけど」
— りんこ (@mild_ozi) July 3, 2024
山本太郎「言語化して」
男子「お母さんとか、知り合いの大人はかっこいいけど、それとは違うような人が集まってる」
太郎「昨日まで山の中の洞窟にいた?笑」
少年、その違和感 正しいよ。 pic.twitter.com/drPcUOIbHa
インド
インドはふたたび、現代世界の急ぎ足のやみくもな高度の技術化の果てに、新しい精神的価値を与えるべく用意してゐるのかもしれない。「インド通信」
まさにそうなのだろう。
インドはまさに世界のまんなかにせりあがりつつある。
同じ猫
ところで三島氏が愛猫家であつたことは、つとに有名である。古い雑誌に若き日の三島氏が猫とともに写つてゐる書斎の写真が、グラビアとして載つてゐたことがあるが、その同じ猫が、三島氏の死後も、ひよつこり顔を出して挨拶することを、三島邸の訪問者は知つてゐる。
あれは飼い猫じゃなかったんだ。
三島由紀夫と猫です(アサヒグラフ 1948年5月12日号)。「猫。あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。」という言葉も残っている猫好きです。 #作家と猫 pic.twitter.com/J78joJPaMI
— 愛書家日誌 (@aishokyo) January 14, 2024
ちょっと驚き。
これ、大発見ちゃう?
[余談]
いつも思うんだけど、本って知らないことが書いてあって便利だなあ。