唐黍やほどろと枯るる日のにほひ
この句もかなり誤解されているようだ。
まずは「ほどろ」。
この意味に解釈している人があるようだが、「まだらに枯れる」? つぶつぶがまだらに白茶けるという意味? 剝けばそうだろうが、そもそもそういうやり方で詠み手自らが状況を迎えに行くことは、俳句ではあまりお上品とされていないのではなかろうか。
ここはあくまでも穂が長けて、立ち枯れているよ、という程度の意味ではなかろうか。
丁度この頃芥川は十歳。背伸びせずとも入ってくる語彙であろう。
無論ここも「巴旦杏」「蛼(いとど)」に続いて我鬼が悪戯を仕掛けているところでもあろう。
一応全集では「ほどろ」に「稲穂がのびてほおけたもの」と注が付いている。
しかし今回は二段構えだ。
むしろ「日のにほひ」の方が解り難いのではなかろうか。
こうではなくて、
こういうことだろう。ここが解っている人は見当たらない。
北原白秋の『邪宗門』でさて「日のにほひ」は臭っている。
斎藤茂吉も臭っている。
むぎ畠のとほき果よりのぼる日のにほひのうちに雲雀なくなり
これが「日光」である。
これも「日光」だろう。
月光は「月のにほひ」となる。
ここの解釈が違うと流石に駄目だろう。
唐黍は秋の季語だが、
唐黍やほどろと枯るる日のにほひ
この句は「唐黍」を季語にした秋の句ではなく「日のにほひ」を季語にした夏の句である。こういう詠み方は前にもあったよね。
春の季語「蝶」を殺して夏の句にする。
秋の季語「唐黍」を殺して夏の句にする。
この季語殺しという作法は、
木枯らしや目刺にのこる海の色
……においても試みられたとみてよいかもしれない。(ただし私は飽くまで喧しいと思っている。)
そして本人もこれを夏の句として選んでいる。句意は「唐黍の穂を長けて立ち枯れているほどの日の光であることよ」という程度のものであろう。唐黍を剥いたらさすがに唐黍の匂いがするでしょう。
ちなみ全集では「日のにほひ」に注がない。それで解ったつもりでいるのかな。そういうとこだよ、吉田精一。
我鬼は本当に曲者なのである。
なんと『澄江堂句抄』では、
……という言葉が添えられていて、全く訳が分からない。本当にいたずら小僧だ。
唐黍やほどろと枯るる日のにほひ
いや、この句の季語はむしろ「ほどろと枯るる」でダブル季語殺しなのか。日のにほひは殺せてないぞ。
日のにほひほどろと枯るる唐黍や
【余談】
芥川の意図は定かではない。しかし「支那」ではなく「上海」というところに意味があるのではなかろうか。芥川にもお金をたくさん与えて世界旅行させるべきだったのではなかろうか。
だからなにがどうなるものでもなかろうが。