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福田恆存の『芥川龍之介と太宰治』をどう読むか⑨ 君は本当に読んだのか?
なるほど告白するには材料が要る。私小説作家は自己の生活のうちに、あえて告白の材料をこしらえなければならないように追いこまれていったのであります。たしかに、これはおかしなことです。なぜなら倫理的潔癖さから出発しながら、その結果は、潔癖とはおよそ正反対なものになっているからです。自分の手足が汚れていることを告白します。が、その告白しうる自己の誠実さを誇る気持ちや、あるいは自分の手足を汚させた不可避の事情についての弁解などが隠れているとすれば、われわれはどうしてこれを真の潔癖と呼びうるでしょうか。
以上はたんにぼく一個の私小説観ではありません。じつは芥川龍之介は、かれの文学的生涯の第一歩を、このような私小説への疑義から出発したのにほかなりません。
いや。
ほかなりますよ。
ほかなります。
この前に、これがある。
こんな文学観も語られている。
どうも初期作品は浪漫的である。
ミラノの画工
ミラノの画工アントニオは
今日もぼんやり頬杖ついて
夕方の鐘の音をきいてゐる
鐘の音は遠い僧院からも
近くの尼寺からも
雨のやうにふつて来る
するとその鐘の音のやうに
ぼんやりしてゐるアントニオの心に
おちてくるものがある
かなしみかもしれない
よろこびかもしれない
唯アントニオはそれを味はつてゐる
「先生のレオナルドがゐなくなつてから
ミラノの画工はみな迷つてゐる」
かうアントニオは思ふ
「葡萄酒をのむ外に
用のない人間が大ぜいゐる
それが皆画工だと云つてゐる
「レオナルドのまねをして
解剖図のやうな画を
得意になつてかく奴もゐる
「モザイクの壁のやうな
色を行儀よくならべた画を
根気よくかいてゐる奴もゐる
「僧人のやうな生活をして
聖母と基督とを
同じやうにかいてゐる奴もゐる
「けれども皆画工だ
少なくも世間では画工だと云ふ
少なくも自分で画工だと思つてゐる
「自分にはそんな事は出来ない
自分は自分の画と信ずる物を
かくより外の事は何も出来ない
「しかしそれをかく事が中々出来ない
何度も木炭をとつてみる
何度も絵の具をといてみる
「いつも出来上がるのは醜い画にすぎない
けれども画は画だ
いつか美しい画がかける時がくる
「かう思うそばから
何時迄たつてもそんな時は来ないと
誰かが云ふやうな気がする
「更になさけないのは
醜い画が画でない物に
外の人がかくやうな物になつてゐる事だ
「己はもう絵筆をすてようか
どうせ己には何も出来ないのだ
かう思ふよりさびしい事はない
「同じレオナルドの弟子の
サラリノはあの尼寺の壁に
マリアの顔をかいたが
「己はいつ迄も木炭を削つてゐる
いつ迄も絵の具をとかしてゐる
しかし己はあせらない
「己はダビデより マリアより
すぐれた絵をかき得る人間だ
少なくもあんな絵はかけぬ人間だ
「ただ絵の出来ぬうちに
己が死んでしまふかもしれぬ
己の心が凋んでしまふかもしれぬ
「たゞ画をかく
之より外に己のする事はない
之ばかりを己はぢつと見つめてゐる
「この企てが空しければ
己のすべての生活が空しいのだ
己の生きてゐる資格がなくなるのだ」
アントニオはかう思ふ
かう思ふと涙がいつとなく
頬をつたはつて流れてくる
アントニオは今日もぼんやりと
夕月の出た空をながめながら
鐘の音をきいてゐる
[大正三年九月 恒藤恭宛書簡]
※「己」は「おれ」と訓ず。
どうもこの時点で芥川は私小説への疑義から出発したのではなく、最初から浪漫的なスタンスでいたことが伺えます。
伺えますよね?
伺えませんか?
仮に短歌と呼んでいますが芥川の場合ほぼ「和歌」ですよね。古語に拘り、わざわざ古めかしくみやびに詠んでいます。私小説を読んで、なんだこんなもの詰まらんと反発して「新思潮」という反自然主義的サークルから、反私小説家として出発したという捉え方は間違いですよね。おそらく和歌は万葉集、俳句は芭蕉、詩は北原白秋と斎藤茂吉、小説はそのまま「今昔物語」と貸本(講談本)が源流で、後の文学観を辿っても紅葉露伴すらまともには出てこないので、そもそも明治の文学史のなかに芥川を捉えることには無理があると思う。
ただ勿論田山花袋を少し馬鹿にしているようなところはあるので、そういう意味において芥川が反自然主義的であるとは言えなくもないと思う。
すでにおわかりでしょうが、芥川龍之介は告白を恐れたのではありません。告白などでいい気になっておられなかったのです。
告白基準で語るとこういう流れになるのかもしれないが、無理にそういう流れにしなくても良かったのではないかと思う。
初期の作品を見てもすぐわかることは、人間の善良さとその醜悪さとを両方同時に見てとる作者の眼であります。ぼくが読者諸君にお願いするのは、そういう龍之介の心を味わっていただきたいという一事につきます。
ここは「その」があるために、とても高尚な事を書いているのかどうなのか迷うところだ。しかし冷静に読むと、どうも人間の善良さの醜悪さを指摘しているわけではなさそうだ。つまり「その」はいらない。
ただそこを無視すれば、彼にお願いされる必要があるかどうかは別として、福田の言い分はそう見当違いなものではない。
ぼくはかれの作品の読者にむかって、あらゆる先入観なしに、つまり作品の主題などにとらわれずに、ただ龍之介の文体を味わいながら、その文体に宿る龍之介の表情だけを頼りに作品を読んでいただくようにお願いしたいのです。何度でも読んでください。
うむ。
まあ、そういうことなんだけど。
ちょっと質問していいかな?
矢の根を伏せて、ってどういう意味?
国粋的省略法ってどんなやり方?
何度読んでも分からないことはある。つまり、いろんな本を読み、色々と調べながら、そのうえで繰り返し読み、そして感じるだけではなく、少しは考えることも必要だろう。感じていても津波も妊娠期間もあらわれては来ない。
主題の如何にかかわらず、どの作品にもこの真空地帯を行き来する人間の空虚なうしろ姿の映像がわれわれの網膜に鮮かに残るでありましょう。この後ろ姿を――さっと風が吹き立ったあとの人間のうしろ姿の寂しさを――読みとらぬとすれば、われわれは真に芥川龍之介の作品を読んだとは言えぬのであります。
後ろ姿しか見えないのであれば、行き来する人は常にこちら側を向かないで、半分は後ろ歩きしていることになる。
しかしこの感覚には確かにおぼえがある。
真空地帯を行き来する人間の空虚なうしろ姿の映像を描き出す作家のひとりに三島由紀夫という男がいた。
芥川作品は?
ここで福田が言う真空地帯とは善悪の中間のことのようである。芥川作品に真空地帯という語彙はない。
我は時々善悪の彼岸に聖霊の歩いてゐるのを見るであらう。
童話時代のうす明りの中に、一頭の兎と一頭の狸とは、それぞれ白い舟と黒い舟とに乗つて、静に夢の海へ漕いで出た。永久にくづれる事のない波は、善悪の舟をめぐつて、懶い子守唄をうたつてゐる。
或声 お前は善悪を蹂躙してしまへ。
僕 僕は今後もいやが上にも善人にならうと思つてゐる。
四十五 Divan
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを辿る多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読み了をはり、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。
宦官とはちんこなしのことであるからたとえ看護婦さんに小さいおちんこを見られたとしてもまだましかもしれない。そして、芥川は善悪の彼岸にはいなかった。それでも彼は真空地帯を行き来する人間の空虚なうしろ姿の映像を描き出していたのか?
一応団子屋に関わるものとしてトレンドの「ちんこ団子」は気になる。
— T漁師☺︎ (@hamanakoryoshi) November 12, 2024
小さいと言う意味らしい。#ちんこ団子 #舞阪団子 pic.twitter.com/M7Ik33a3rM
なら浪漫派ではないのか?
真空地帯を行き来する人間の空虚なうしろ姿の映像?
それではお尻しか見えない。
いや「どの作品にも」?
そんなことはない。
そんなことはないな。
うん。確かに福田は言いすぎている。つまり福田は真に芥川龍之介の作品を読んだとは言えぬのであります。
[余談]
後ろ姿ということはおちんこも顔もみえないということか。
しかし真空だとそれどころではないか。