白桃や莟うるめる枝の反り
この句には
白桃は沾(ウル)み緋桃は煙りけり
と主題が転じたものがある。ところでこの句の季節はいつか。それすら曖昧な人が多いようだ。季節が解らないということは殆どその句を読んでいないことになる。
辞書を引き、引き比べ、辞書を疑おう。
※ 星野高士さんは高浜虚子のひ孫。
莟は「つぼみ」「はなしべ」なので花が咲きかけと思いきや、枝が反り、「うるめる」なので果実が熟して,色が変わるという意味に解釈できる。
蛇笏も花のつぼみの色の変化と見ている。しかし色の変化では枝は反らない。この非合理性を正当化するために室生犀星は「枝のなり」と姿に変えてしまう。
そう、枝の反りで花のつぼみでは大袈裟なのだ。果実の熟したのを室生犀星は自身のなかで合理化してしまった。それだけ「反り」は引っかかる言葉なのであろう。
私はこう考える。
莟と書いた芥川は枝を反らせることで花か実かと惑わせる意図はなかろう。
白桃や莟うるめる枝の反り
白桃の花が咲くのは春、実るのは夏である。白桃は七月ごろから出荷される。この句にこうして「古雛」「剪りきりたるひと枝」と添えられていることから、莟は花の莟であり、果実ではないことが解る。しかし莟は果実のように膨らみ、枝はことさら自慢でもするかのように反らせていたのであろう。
この枝の反りという誇張法がこの句の味わいなのではないか。いや、これは活花の「反り」だ。
こうなるともう何なのか解らない。
室生犀星はいい加減にした方がいい。
白桃は「しらもも」と訓じよう。
【余談】
白桃や日永うして西王母 子規
この子規の白桃の句が明治三十二年の作だとすると、どうにも辻褄が合わない。
時空が歪んでいる。
ついでに言えば、芥川が見たのが白桃の花の莟であったかどうかも甚だ怪しい。
どうも白桃の莟はピンク色で、言われなければ白桃とは解らない。
坊ちゃんは五分刈り。