すががさに霜降る夜やひそかごと 芥川龍之介の俳句をどう読むか42
そうか。やはり伊香保に来たのか。
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな
伊香保と言えば、
こんな話があり、明確に怪しい。
まあ「別情自ら悄然たり」という背景はあったのだろう。
この句は室生犀星から菅笠が「皮かむりの古さ」「餘りに古きに從ひ過ぎ做ひ過ぎる」と指摘されている。漢口ではヘルメットだったが、
霜のふる夜をメットのゆくへかな
ではさすがに浮ついている。
ところでこの句、何か引っかからないだろうか。霙は降るが、霜は降りるもの。霜は地面に氷が立つ。霜降りには別の意味もあり、
霙ふる夜を蛇の目をゆくへかな
では何故いけないのか。
室生犀星の批判そのものがおそらく「旅合羽」までを意識に含めたものであろう。まさか菅笠に蓑ではあるまいとは思いながらも、菅笠に二重廻し(インバネス)ではあるまいと見ていたからこその「餘りに古きに從ひ過ぎ做ひ過ぎる」という批判だったはずだ。
しかし実際には「旅合羽」は着ていなかっただろう。しかし霙でないにせよ、細かな氷状のものが降りしきっているのならば、菅笠だけではいかにも頼りない。つまり細かな氷状のものが降りしきっていたわけではないのではなかろうか。
ざくざくと霜を踏みながら菅笠はただ顔を隠すための役に立つていたに過ぎないのではなかろうか。
トモエホ? 誰や?
こうして明治の句を見ていくと、菅笠は夏の農作業以外ではさして実用的なものではない。やはり「別情自ら悄然たり」というところを見れば、菅笠は顔を隠すためのもので霙を避けるものではなかろう。
養うと言いながら実際にやったことはセックスであろう。だから伊香保の思い出と言えば一人乗りの自動車の話になってしまうのだ。伊香保と言えば不味いそばを食べて品川猿とサッポロの瓶ビールを飲みましたと村上春樹が書けば嘘である。
わざわざ四国うどん巡りをして、最後の晩餐は「鍋焼きうどん」だと決めている村上春樹なら、伊香保では水沢うどんを食べてセックスするのが普通だろう。そして当然性欲の強い芥川龍之介ならば、伊香保まできておいてセックスをしないわけがないのだ。
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな
この菅笠には「すげがさ」と「すががさ」の読みがある。「すががさ」の方がいささか雅か。
この句は、
すげなくもあかる菅笠霜夜かな
いかほろの霜降る夜のわかれかな
すががさの忍びあまるやみそかごと
このくらいに解釈しておこう。
念のため。
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな
これは芥川の姿ではなく、
こうした道行でもなく、去り行く女の姿であろう。自分のゆくえは分かるだろうからそこに詠嘆はないものだ。あるとしたら拉致された場合だ。自ら去るのに「悄然たり」ということもない。あるとしたら拉致された場合だ。勘違いしている人がいるかもしれないので、念のため。
【余談】
小説の中の台詞とは言え、ここから省かれている名前を考えると太宰の好みが解るというところ。要するに久米正雄など眼中になく、佐藤春夫には額づきながら言及する勇気がない。紅葉、露伴は古い。一葉、鏡花も肌に合わない。漱石は俗。そう書いているようなものだ。飽くまでも個人の感想です。
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