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福田恆存の『芥川龍之介と太宰治』をどう読むか④ どうしてお前たちはわからないか?

しかも巨峰は己れを憧憬する俗物一切を否定し蹂躙し去る。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

Moreover, the giant peak denies and violates all the snobs who admire it.

 何言うてはるの?

 いまや過去のこころみもすべて徒労におわったのではなかろうか。一切は拒絶され、精神の一つの在り方は闇から闇へ葬られてしまうのでなかろうか。このとき自分の精神も肉体も、意識も日々の生活も、まるで他人のそれのようにどこか遠くの涯に退いていくのを感じる。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 感じるの?

 それ自分語りやん。

 それにしても大げさやな。

 英文科卒業しました。女の子に振られました。

 大学院に籍はありますけど通学してません。詩を書いています。将来は……将来は教師の口でもあればええんですが、就職活動はしてません。やる気がないです。

 こうやって具体的に説明しないと何も分からないんじゃないかな。君ねえ、近代文学1.0の一番悪いところの膿みたいなものがどくどく流れ出ているよ。

 大げさに言うてるけど単にモラトリアムやん。で、現になんか書いとるやん。

 後から考えたらあれ何だったんやろなという話やな。そんなもん大抵の人は知らんで。

 この場所に想像ははたして可能であろうか、僕たちは砂漠の中にいるのか、それとも泉のほとりに立っているのか。芥川の表現はここから始まっている。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 あんたのことは知らん。

 そんな「僕たち」って簡単に仲間にならんとって。芥川は芥川やん。それでなあ、女に振られて仕事もなくて、という環境は環境として、「芥川の表現はここから始まっている」いうのは間違いやで。

 あんた先に云うたやん。

 芭蕉の句が、比喩がどうたらこうたら。

 きちんきちんと一つずつ確認してみようや。そんな格好つけて知ったかぶりせんと。

 女に振られる前から表現は始まっている。嘘を書いてはいけない。福田恆存は嘘を書いている。これはいけない。人間として許されることではない。格好つけの知ったかぶりだ。

 自己の実生活がつぎつぎに彼の精神を裏切って行くのを感じたとき、彼が頼ろうとしたのは芸術であった。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 これもどうかなあ?

 ここはあくまで芥川の精神なので推測するしかないんだけど、そこまで断定的に言えるかね。後から見れば「必然的だ」「運命だ」としか思えないんだけど、例えば漱石の『吾輩は猫である』までの経緯を見ると明らかに何かおかしいんだよね。端的に言えば遅すぎる。子規と共に幸田露伴とお友達になって明治二十三、四年に小説に向き合っていても可笑しくはなかったわけだ。しかしそうなると『吾輩は猫である』の大成功はなかったわけで、これは本当に本人の都合というよりタイミングの問題なので、芥川個人の問題としては語りえないところがあるんじゃないだろうか。

 要するに成瀬や久米がいなければ、『鼻』はない。虚子がいなければ『吾輩は猫である』はない。漱石がいなければ芥川のデビューはない。そこから文壇全体で芥川を押していこうという『羅生門』出版記念パーティーへの機運も含めて、全体で捉えていかなくてならないんじゃないかな。

 これ蒼々たるメンバーだよ。久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛らの同輩はともかく、漱石門下の先輩、赤木桁平、和辻哲郎、鈴木三重吉、小宮豊隆らが参加して、盛り上げようとする気満々。そして佐藤春夫、谷崎潤一郎、日夏耿之介、豊島与志雄、有島生馬、滝田樗陰、後藤末雄、加能作次郎、江口渙?

 小宮と谷崎がいなければ『羅生門』出版記念パーティーもないわけだ。つまりやはり漱石と『新思潮』とあれやこれやの産物として作家芥川龍之介はある。そこはそんなに狭い個人史で語れる話でもない。

 だが、その芸術的表現をさえ彼の精神は不可能にしたのである。なぜなら、精神は表現されるためにかならず肉体を必要とする。怜悧な妥協なくしては、いかなる精神も表現をもちえぬであろう。が、実生活において妥協を知っていた芥川龍之介は、表現の素材として役立ちうるようなあらゆる肉体的表情をみずから抹殺してしまっていた。それは彼がなによりも自己との妥協を恐れたからにほかならない。いや、彼の実生活における妥協こそは、自己との妥協を避け、たえず自我の純粋にいようとするための賢い手段でしかなかった。

(福田恆存『芥川龍之介と太宰治』講談社 2018年)

 ここで言われていることが芥川のどの時期の何を指すのか、具体的に説明できる人が存在するだろうか。私はここまで芥川がデビューする前の詩歌や書簡を繰り返し見て来た。参考になるなというものは記事で公開している。それらをざっと拾い読みしてもらえばわかる通り、ここに書かれているような具体的な事実はないと言えるのではなかろうか。

 問題は「表現の素材として役立ちうるようなあらゆる肉体的表情をみずから抹殺してしまっていた」といった表現が、抽象的に過ぎることである。佐藤春夫に脱ぎたてのパンツを貸したことをこのように表現可能かもしれないと思わせる程度に抽象的だ。逆に言えば中身がない。そのまま受け取ると自ら手足を切り落として芋虫にでもなったのかと心配するよりない。勿論そんな自傷行為の記録はどこにもない。

 もう少し優しく解釈して、学生らしいスポーツに励んでいなかったという話なら、まあなくはない。しかしそのことを「表現の素材として役立ちうるようなあらゆる肉体的表情をみずから抹殺してしまっていた」といった表現するやつはまともな人間とは言えない。平たく言えば馬鹿だ。馬鹿なんてひどいじゃないかという人は自分が「表現の素材として役立ちうるようなあらゆる肉体的表情をみずから抹殺してしまっていた」と言われたらどう感じるか考えてもらいたい。なんだか根拠もなく適当に相当ひどいことを言われていると感じないものであろうか。

 こんなものが文学である訳はない。福田は駄目だ。

[余談]

 クリストは比喩を話した後、「どうしてお前たちはわからないか?」と言つた。この歎声も亦度たび繰り返されてゐる。それは彼ほど我々人間を知り、彼ほどボヘミア的生活をつづけたものには或は滑稽に見えるであらう。しかし彼はヒステリツクに時々かう叫ばずにはゐられなかつた。阿呆たちは彼を殺した後、世界中に大きい寺院を建ててゐる。が、我々はそれ等の寺院にやはり彼の歎声を感ずるであらう。
「どうしてお前たちはわからないか?」――それはクリストひとりの歎声ではない。後代にも見じめに死んで行つた、あらゆるクリストたちの歎声である。

(芥川龍之介『続西方の人』)

 解りにくいからだよ。

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