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『彼岸過迄』を読む 4365 作中人物の設定⑧ 「松本恒三」

松本恒三 

 四十がらみ。一年半前に、二十五年前の話として十五六の自分を登場させているところから、計算上は四十二三になる。眉間に黒子がある。煙草道楽。西洋パイプを吸う。

 痩せていて背は高い。夏目漱石作品に登場するキャラクターの体格と性格の相関関係の例により田川敬太郎の印象は「どこかおっとりしている」というものだった。今時流行らない黒の中折帽をかぶっている。

 妻・御仙、長女・咲子、長男(名前不明、漢字書き取りが苦手で出来が良くない可能性がある。)、次女・重子、次男・嘉吉の四人の子供たちと下女二名(そのうち一人の名前は清、そのうち一人の下女は十六七と若い。これが清かどうかは解らないように書かれている。)、飯焚(性別不明)と矢来の家で暮らしている。三女宵子は何年前かに突然死した。高等遊民なので家庭的で子沢山。貧乏な割に贅沢と須永市蔵に言われているが、ちょっとした調べものは自宅でできるくらいの蔵書家。また人に調べものを頼まれる程度の知識人で、かつ交際も広いと考えられる。

※出入りの車屋があり、田川敬太郎が松本恒三の家を訪ねる際も、車屋で「そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた」とあり、頻繁に車屋が利用されていたことが解る。つまり高等遊民と雖も引きこもりのニートではない。またこの「若い者」が出入りの車屋だとしたら、下女部屋に上がり込んで飯焚と話し込んでいる様子は少し絵が変わってくる。

 二人の姉はそれぞれ須永家、田口家に嫁いでおり、須永市蔵、田口千代子から見れば叔父。須永市蔵に尊敬されていて影響を与えている。また田口千代子とは二人っきりで食事をするなどして親しい。好物は雲丹。

 雨の降る日に紹介状を持って現れるとは会わないことにしている。
   

「己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来るが厭になった」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 女に会わないとは決めていない。
 松本家の座布団は丸い。本妻ではなく情婦を連れて歩いても問題はないと考えている。話に説得力がある。

 夏目漱石作品の多くに複数の漱石の分身のようなものが現れる。松本恒三もその一人だ。知的で教養に溢れていて、若い者から慕われる。宵子の死のエピソードは殆どそのまま日記から採られている。その中で敢えて省かれている部分がある。医者が死因について原因不明の突然死とすると厄介なので……と誤魔化すところだ。ここに漱石の自己投影が全くないとはいいわけできない。松本恒三は漱石の分身の一つだ。

 これで小説でも書いていたらそのまま漱石なのだが、松本恒三は何故か小説を書かない。どうも相続財産のようなもので暮らしていて、大勢の家族を養い、それなりに贅沢もし、自分の趣味にも凝り、気ままな交際をしている。背が高い。

 この背が高いというところが味噌で『野分』の白井道也もおっとり型で背が高かった。こちらは元教師にして貧乏な文学者。

 松本恒三も白井道也も夏目漱石の分身とは言いながら、「そうであったかもしれない自分」であり「そうではない自分」なのだ。夏目漱石には相続財産はない。だから松本恒三にはなれない。夏目漱石も元教師だが、教師を辞めたから途端に金に困るというような売れない文学者ではなかった。『吾輩は猫である』以前から名は知られていて

 『吾輩は猫である』以降の人気はすさまじい。そして漱石のお蔭で原稿料がもらえるものも出て来た。

 夏目漱石は白井道也のような貧乏な文学者にはなれなかったのだ。

 神経質で嫉妬深く小柄な須永市蔵も夏目漱石の分身の一人だと考えてよいだろう。こちらは法学士ながら世に出る気配のない鬱々とした青春を過ごしている。漱石にはそんなモラトリアム期間はなかった。須永市蔵は相続財産で暮らしている。もし相続財産がなければ、須永市蔵も働かなくてはならない。相続財産のようなものが欲しいと『それから』執筆後に中村是公に漏らした漱石の願望は、こうした「if」として『彼岸過迄』の中に現れたものと思う。

 また時代に対する社会批判はある。日露戦争以来、単なる労働者はワーキングプア状態だったのではなかろうか。夏目漱石の松山中学の月給が八十円という資料を確認していたら、体育教師が十円しか貰っていなかった。一方『二百十日』にあるように華族や金持ちが威張り始める。そして『彼岸過迄』の明治四十五年には高等遊民が社会問題化する。

 高等教育を受けたものでさえ職がない。では、職とは何だ、高等教育とは何だと、漱石もそんな話を若い者から聞かされていたのだろう。そこへぽんと時代の上澄みのような高等遊民松本恒三を持って来たのは、何の狙いかと散々議論されてきたと思う。

 これなんかまさにそうだ。しかし問題を経済として捉えられず、明治末期のインテリゲンチアの世界として、いかにも狭く解釈している。

 いやむしろ漱石の言う相続財産というのはもっと先のレベルの話で、今でいう「平等」のセーフティネットとしてのコモンのようなものなのではないのかなと考えてみる。

 高等教育を受けたものでさえ職がない。職がなければ泥棒でもするしかないというのが現実だとして、高等遊民という生き方も可能ではないのか。漱石は松本恒三でいわゆる高等遊民(高等教育を受けながら職に就けないもの。ならず者予備軍)をリタラリィな高等遊民(高等教育の成果を発揮し、ブルシットジョブに忙殺されず自由に学び続けるもの。昔、松岡正剛の言っていた遊学するもの)に転換し、そこになにがしかの価値を与えている。そこが理解できていないとお話にならない。

 だから代助だけを高等遊民としていじるだけ、高等遊民松本恒三を認められない近代文学1.0には何の値打ちもないのだ。




[余談]

 これ、どう?






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