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川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』はどこがこわいか?

 川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』は記憶に関する話だ。記憶とは不意に手渡されたり、突きつけられたり、足元に置かれている箱のようなもの、いつでも自分の外側にあるものだと「わたし」は考えている。

 会いたい人が一人もいない田舎町の同窓会に参加することにした女優の「わたし」は「何かを圧倒的にわからせる」ことを期待して高級ブランドで(シックに)着飾る。マノロのヒールっていくらぐらいするんだろうと調べてみたらほぼ二十万円する。そして「わたし」は分かりやすく、眼に這入るもの全てに毒づき、マウントを取り始める。そんな「わたし」のぎすぎすした感じ、凄まじく何かが欠けている感じがまずは「こわい」。

 楽しそうにはしゃぐ女の子たちは、ちょっと太ってだらしない雰囲気になってるか、けっこう痩せてあちこちが筋ばってて必要以上に老けてみえるか、そのどっちかといった印象で、共通しているのは中年っていう言葉が連れてくるイメージそのものだった。結婚してきっと子どもだっているんだろうけど、ろくに運動も努力もしないで好きなときに好きなもの食べて寝たいときに適当に寝て、基本的にだらだらした生活してるんだろうってことがひとめでわかる。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 あっ……もう『春のこわいもの』ではないのに、これは「こわい」。結婚にも出産にも価値を見出せない独身女性が、自身の節制した規則正しい生活の証としてのスタイルの良さを勝ち誇っている。彼女らが心の中で思っていることを文字にして晒してしまえばここまでぎすぎすしているものかと呆れてしまう。こんな女の人が視界に入ればとにかく逃げ出すしかない。彼女は男子高校生が何でもおかずにしてしまうように人の悪口でご飯を何杯も食べるだろう。

 わたしには、友だちがいなかったのだろうか?

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 そんな自問に自らの記憶の範囲では答えはない。箱が必要なのだ。自分の外側にある記憶の箱が。芥川龍之介の『芋粥』のような話になるのだろうか。この「わたし」の傲慢さが柔らかく挫かれることになるのだろうかと期待しつつ読み進めると……

 箱はふいにもたらされる。ずっと忘れていた「黒沢こずえ」という小学校時代によく遊んでいた女の子が三年前に餓死していたと聞かされる。

「そう。黒沢こずえは餓死したの。部屋で見つかったの。夏だった。部屋で死んでたの」

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 ガーシー。置き去りにされた幼児でもあるまいに。

 これは『夏のこわいもの』ではないのか、と奥付を確かめる。勿論黒沢こずえは部屋ではなく外で死ぬべきだった。大抵の餓死者は部屋で死ぬ。

 その箱を受け取った後、「わたし」はひさびさにビールを飲み始める。(節制は?)そして黒沢こずえの記憶を取り戻す。

 自分は服を着たまま、まるで何かの儀式のようにわたしは黒沢こずえを裸にして立たせ、膨らみかけた胸をなで、まだ色もかたちもはっきりしない乳首を吸ったり舐めたりした。それが終わると仰向けに寝かせて、かすかに陰毛が生えかけていた性器を指さきでひらいて何分ものあいだじっと眺め、いくつかある線のなかに舌を入れて、それから指さきをその奥に入れてみたりもした。

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 自分にもそんな箱があるだろうかと考えてみる。残念ながら思い当たる節はない。私の記憶はすべて私の中にあり……。しかしそれは私がただ同窓会に行かなかったから、或いはそっと足元に届けられた箱に気が付かなかっただけのことなのかもしれない。「わたし」にはもう一つ箱が届けられる。

「そう。たしかおなじ年くらいの女の子と見つかったんじゃなかったっけ。女の子っていっても三十とかそんなだけど。その——黒沢こずえさん、だっけ? 彼女の家で、ふたりで餓死していたんだよね。どういう関係だったかまではわかんないけど、女の子とふたりで死んだんだよ」

(川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』新潮社 2018年)

 この箱からは何も現れてはこなかった。何が失われ、何が残されているのかを見なければならないのに何も見えない。二人で死ぬことの意味も、黒沢こずえという女がそもそも存在していたかどうかということも。

 川上未映子の『彼女と彼女の記憶について』の何がこわいのか?

 おそらく彼女にはまだ届けられていない箱があり、そこには彼女をこんなにぎすぎすした三十三歳の女優に仕立て上げたものが入っている。田舎者の同級生にマウントを獲らねばならぬほど溜まりに溜まったストレスなのか欲求不満なのかの元になるものが入っている。

 あるいはそもそも『彼女と彼女の記憶について』は「こわい」話ではない。「ろくに運動も努力もしないで好きなときに好きなもの食べて寝たいときに適当に寝て」と既婚者を侮辱していた女優が懲らしめられる勧善懲悪の話だ。そうでないとしたら二十万円の靴を履く女優と餓死する黒沢こずえの貧困と格差をテーマにした話だ。あるいはLGBTと未成年者の問題の話だ。そうでないとしたら『芋粥』にみせかけた『羅生門』だ。

 なんであれ、むせかえるような女くさい世界の話で、withoutで、ところどころ漢字を妙な感じに開く話だ。






[余談]

 彼が五六年前に別れたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。

(芥川龍之介『芋粥』)

 よく分からないけれど今「うけ唇の女房」はさらっとただの「女房」に直されてしまうんだろうか。そういう時代性みたいなものはむしろ現代のほうが解りにくくなっている気がする。

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