メキシコには、二重まぶた、という概念がないようです。
私の可愛いメキシコ人の彼が登場しますが、断じてこれはのろけではありません。
世界にはいろんな人がいて、いろんなものの見方があるという話なのです。
私の長年抱えてきたコンプレックスが、メキシコでできた可愛い私の彼氏によって、いとも簡単に吹き飛ばされて、どこかへ行ってしまった話。
あれは、いつ頃だっただろう、そうだ、きっと思春期の時。
どうしたらもっと可愛くなれるのだろうと、真剣に毎日悩んでいたあの頃、この世の中には、一重まぶたと二重まぶたという二つの種類の目のつくりがあることを知った。
自分の顔のパーツをくまなく点検してみる。
両目とも決してデカい目でないけど、
左目はかろうじて、奥二重(自称)。一方で右目はもったり一重(ひとえ)。
そして、目が大きい(二重)=可愛い
という誰が決めたのかよく分からんルールに従わなくては!と思い込んだ私は、パッチリ二重は難しくとも、せめてこのもったりとした右目が少しだけ大きくならんかしらと、鏡を見ては恨んでいた。
大学生になり、下手くそながらも化粧というものを覚えはじめ、二重まぶたは頑張れば作れるということを知った。
アイプチ(簡単に言うと、のりでまぶたをくっつけて二重まぶたをつくる化粧品)や二重マッサージなどをあれやこれや試した結果、まぶたに長ぼそい透明のテープを貼り付けて、人工二重まぶたをつくる「アイテープ」というものが、私の右目を(ほんの少しだけ)大きくできる一番のソリューションである!と結論づけた。
もちろん、分かっている、そんな小さな違い、自分以外は誰も気にしていないことは。
でも、このコンプレックスが、一時的にでもテープで解決できるならと、もう何年も、毎朝、まぶたにテープを張り続けている。
月日は流れ、そんな私にも彼氏ができまして。
人生っていろんなことがあるんだろうけど、なぜか、ほぼ地球の裏側、メキシコで働いてみることを決めて、泣いたり笑ったり、呆れたりしながら、メキシコでなんとか踏ん張って暮らしていたら、ふとしたところから、彼が私の前に現れた。はじめは、なんだこいつ、と思っていたけど、気づけば、それはもう私にとって、可愛いくて仕方のない生命体となった。
メキシコ人のパートナー。可愛いと連発しているけど、ぱっと見は、もさっとして、ごつめの彼。メキシコ(というかスペイン語圏)では、人混みで呼んだら、10人は振り向くほどよくある名前の「パブロ」というのだけれど、愛をこめてパブロちゃんと呼んでいる。
ラテンアメリカの男性は割とみんなそうなのかしらと思うのだけど、女性にはとても優しくて、ちゃんと口にだして、私のことを褒めてくれる。
男性に褒められ慣れていない私は、容姿を褒められると嬉しい反面、照れが爆発して、パブロちゃんには私のことが北川景子にでも見える魔法がかかってるのか!?なんて思ってしまう。
ある日、付き合い始めてしばらくたって気を許した私は、パブロちゃんがいるところで化粧をしていた。
アイテープを使って二重をせっせとこしらえる私を見て、
それはなんだと聞いてきた。
う、見られていたか。
「日本のテクノロジーだよ。」とごまかしたが、頭の上に、はてなマークが浮かんでいる。
そもそも「二重(ふたえ)」って英語やスペイン語で、なんて言うんだろう。なんて説明した良いのか分からず、
「私はこっちの目だけ、目の上の線がなくて少し目が小さいから、目を大きく見せるために、まぶたをテープで張り付けてるんだよ」と片方ずつ目を見せて説明した。
テープによってできた人工の二重まぶたを見て、パブロちゃんは驚くでもなく、軽蔑するでもなく、へぇーそうなんだと、適当に返事をして、インスタグラムの「あなたへのお勧めリール」に流れてくる動画をひたすら見る謎のルーティーンに戻った。
私は、そんな興味ないんかい!と思いながらも、人工二重(ふたえ)のことを深く突っ込まれなかったことに、ちょっとだけほっとした。
そのあと、しばらくして、トイレに行って帰ってきたパブロちゃんは、なんだか興奮していた。
「分かった!」
なにが?
「目の上の線!」
は?
「やっと言ってることが分かった!!確かに自分の目の上には線があるね。今まで考えたこともなかった。」
へ?
なんと!パブロちゃんは、これまでの人生の中で、くっきりと彼の目の上に君臨し、羨ましくなるほどの存在感を放っている、その目の上の線について、考えたことも、気づいたことも、気にしたこともなかったのだ。
「さっき、目の上の線のこと教えてくれたときは、いまいち良く分かってなかったけど、やっと言ってる意味が分かった!!!」
と、とても嬉しそうに、はしゃいでいる。
もう一度、私のテープを装着済みのまぶたをよく観察し、これが日本のテクノロジーか!と感激した。(いえ、違います。)
私がこれまで悩みに悩んで、毎朝テープをはったり、剥がしたりしている、気になってしかたのなかった目の上の線。
そもそも、彼らにとっては、二重(ふたえ)、一重(ひとえ)という概念が存在しないようだ。
確かにメキシコで道行く人の顔を見ると、例外なく、皆さん、くっきりとした線を目の上にお持ちである。みんな当たり前に「線」があるから、別にわざわざそれを「ふたえ」だとか「ひとえ」だどか、分類したり判断したりもしない。
反対に、一重(ひとえ)の私は珍しいから、パブロちゃんには、それがエキゾチックに感じるらしく
「テープをしてる目もしてない目もどっちも素敵だと思う、テープをしたほうが、自信が持てるなら続けたらいいけど、自分にとっては、どっちでもいい。」
と言われた。
これまで、私のまぶたに張られてきた大量のテープたちが、一瞬で成仏された気がした。
あんなにこれまで何年も悩んできたけど、なんだかよい意味でどうでもよくなった。
二重とか一重とか、どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、線があるのもないのも個性と呼ぼう。
これまで恨んでいた私の右目を鏡で見てみた。
今までよりも、ちょっとだけ自分の右目が愛おしく思えた。
確かにこれはこれで個性かもしれない。
二重が可愛いというルールが定着している日本から抜け出して、顔のつくりも考え方も日本とは違う、遠いところに来てみてよかった。
これも個性と、これが私の目だと気づかせてくれた。
二重という概念が存在しない国で生まれ育った、パブロちゃんが。
これまで知らなかった人類の目のつくりに新たに気づいてしまったパブロちゃんは、どうやらその後、会う人すべての「目の上の線」を観察しているらしい。