いつも、しあわせでいようと思った話。
今日、僕の誕生日(*6月23日)です。なので、
いつもしあわせでいようと思った話をします。
自分はいつまでも「しあわせになりたい」とかアホみたいなことを言いながら口を開けてそんな日が来るのを待っているのではなく、もっと自分からなにが自分にとってのしあわせなのか見つめるべきなんじゃないのか、そして、その具体的なしあわせの内容を実現すべく生きるべきなんじゃないのか、みたいな話をしてどうしようもなくチキンな自分を震え上がらせたりしたのだけど、なんか綺麗な夕陽を見ていたら、そんなに深刻に考えることでもないような気がしてきた。
今までの僕の考えでは、しあわせとは以下の認識だった。
しあわせになるためにはお金とか恋愛とか家庭とか友情とか、そうしたしあわせになるための様々な要素が必要だよ、それを満たしてはじめてしあわせになれるよっていう考え方。
これに対して今、僕が思ったのは、
今度は様々なしあわせの要素を手に入れてはじめてしあわせになるんじゃなくて、そうじゃなくていつもしあわせでいること、いつもしあわせからスタートするという考え方。
なにはなくともしあわせでいるという前提の上で、お金が必要なら銀行を襲撃する計画を立てたり、コンビニの店員さんに一目惚れしたら思い切ってお弁当を温めてもらう際に「ぼ、ぼ、ぼ、僕のこともあっためてください!」って言って警察を呼ばれたり、コリちゃん(コリラックマ)のぬいぐるみを自分の子供って設定にして自分のことを「パパ」って(脳内で)呼ばせたり、幼稚園の砂場に侵入して見事な砂の城を築城して園児たちのヒーローになるも保母さんに警察を呼ばれたりすればいいという考え方。・・・まあ完全に具体例が間違ってるせいで伝わらなかったと思うけど...。
まあほんとに警察を呼ばれたりお縄になるのは勘弁だけど、しあわせになるためには自分にはあれが足りない、これが足りない、だからあれが必要だ、これが必要だとする生き方には結局際限がないと思う。
きっとそんな考えだとあれを手に入れてもこれを手に入れても、今度はもっとあれがほしくなったり、違うこれが必要だと思ったり、結局満足なんてできないままなんじゃないかと思うのだ。だからそうではなくて、あれがなくてもこれがなくても、なにはなくともしあわせでいたいと思う。なにかを手に入れたり達成した結果としてしあわせになろうというのではなく、なにはなくとも、なにをするにも、しあわせでいることを前提に生きていきたい。
その上で必要ならちょっとはがんばってお金を稼ぐなり、恋人や家族や友達がほしければ勇気を出して人を好きになってみるなりプロポーズしてみるなり仲よくするなりすればいいんだと思う。
しあわせになるためにはなにかが必要だ、という考え方は自分をそれに依存させてしまう。そんな生き方は自由じゃないし、自由じゃない生き方にはしあわせもない。
なにはなくともいつだってしあわせでいるなら、しあわせでいるためになにも必要としないなら、そのときこそいつだって自由だ。
まあそうはいっても「いつだってしあわせでいること」っていうのが難しかったりするんだけど。でもまあそこらへんはあやふやでうやむやな感じでなんとかしてみる!あたいがんばる!(適当)
なんとしてもあれを手に入れる、そうじゃなかったら自分はしあわせになれない、みたいなガツガツした生き方は自分にはできない。そういう生き方を卑しいとか餓鬼みたいだとか言って否定する気はないけど、自分にはそんな根性はない。
僕は怠け者だから人生のマグロになろうと思う。マグロって言っても不感症なわけじゃないよ。自分から「しあわせになるためにあそこへ行こう、どこへ行こう」とイライラそわそわしてるんじゃなくて、いつだってしあわせな気持ちでいるだけ。こっちからあれこれしようとするんじゃなくて、あれこれはどうせ頼んでもいないのに人生のほうで勝手にしてくれる。僕はそれを出されるまま食べるだけ。あるいは煮るなり焼くなり好きにされるがまま。マグロというか、まな板の上の鯉ですね。
どう生きようとしあわせになることが目的なら、あれをしてこれを手に入れていつかしあわせになろうとかするよりも、今この瞬間にしあわせになってしまったほうが早いし、いつもしあわせでいるほうが合理的だと思う(言ってることはめちゃくちゃ不合理だけど!)。
そういうわけで、今から僕はしあわせになろうと思う。はい、今から僕はしあわせになりました。この先の人生がどうなるかなんて僕にはなにもわからないけど、これからもずっとアホみたいにしあわせでいようと思います。アホでよかった!バンザイ!
おしまい。
To be continued.
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