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♯2 向いていない技術・見たくないところ

  教習所の近くに住みながら、私はしばらくそこに行かなかった。
 そして一年以上経って通うことを決心した。
 毎朝バスで教習所の前を通るたびに目にしていた「今こそ免許!」という手作りのポップを見て、
 「そうだ、今しかない」と思った。

  大きな理由は仕事の変化だ。
 転居の理由になった仕事はとても忙しかった。しかし、それまで勉強して来たこと、社会にこんな取り組みががあったらいいなと思うような事業に従事していた。所謂、好きなことを仕事にしているという状態だった。好きなことを仕事にするのは幸せなことだ。しかし、思い描いたことを「仕事だから」という口実をつけて際限なく没頭することも許されるような気すらしてくる。しかし、仕事が悪いのか、会社が悪いのか、はたまた私の要領が悪いのか、さまざまな理由で会社を離れ、フリーランスとしてしばらく働くことになった。気楽は気楽でやってやれないこともないけど、大きな案件が終わった後になんだか寂しく感じた。必要な時に一気に集合!終わったら一気に解散!というチームワークは効率はいいのかも知れない。しかし日常的な信頼関係を大切にしたい私には性に合わなかったようだ。そんな気づきもあって、これまでやってきたことと遠からず近からずの分野の事業をやっている会社に就職した。それが今働いている会社だ。
 前の職場と比較すると人数かかなり多く、それぞれの仕事の職域がはっきりしている会社だ。前職はベンチャーのような気風でどんどん開拓してプロジェクトを推進することを求められたので雰囲気はガラッと違う。しかし、新しい分野のことを知るという楽しさと穏やかな人が多い職場環境に恵まれたこともあり、落ち着いた働き方となった。

  それまで直近の締切やタスク、トラブル対応で視界がすっかり埋まっていたが、それらが一つずつ消えていくと、そこに見えて来たのは自分の苦手な分野のことだった。今まではスピード感、瞬発力、コミュニケーション能力、アイデアなどでなんとか切り抜けて来た。しかし、今の職場では丁寧さや正確さに求められる。せっかちで気が散りがちな私の苦手分野はまさにここなのだ。もちろん、これまでの人生もこの苦手と向き合ってこなかったわけではない。苦手を熟知しているが故にその対策はしてきたが、しかしそれにしても苦手は苦手なのだ。二十代の頃の上司に「なんで他のことはかなり出来るし、君にしかできない仕事もある。なのに、みんなができるこの作業だけできないのかなぁ」と言われたのは経費の清算だった。面倒臭がっているわけではない、その業務を軽んじているわけでもない(立て替えた経費は必ず返って来て欲しい)。しかし、どういうわけか苦手なのだ。ひとつひとつの数字を合わせる、あるルールに沿って何かを並べる、細やかなことがどうにもこうにもうまく行かない。書いていて情けなくとても恥ずかしい気持ちになるほどに。

かねてから苦手意識が強いもののひとつが語学だった。親の教育方針により、幼稚園の頃から英会話スクールに通い、義務教育でも学び、大学では一時は専攻してすらいた。苦手で仕方がなかった理系科目に比べればかなりマシでむしろずっと点数は取れていたのだが、授業中に起きてさえいれば軽々と平均点を超えることができた国語や社会に比べると英語が得意だと胸を張って思えたことはない。同じ時間勉強した人に比べて上達の具合が悪いような気がする。文法や語彙を反復練習するのは退屈だし、なんだかよく掴めないが「語学のセンス」のようなものには恵まれていないような気がする。そもそも勉強自体が楽しいと思えなかったのだ。しかし、二十代の終わりに突然海外に行きたくなり、止むを得ず英語学習を再開した。最初はやはり楽しくなかった。さぼってばかりだった。とはいえ、英語圏で生活するには、英語が喋れないのはとても不便だ。仕事でももっと自信を持って喋りたい。加えて周りの日本人にバカにされたくない…という色々なモチベーションが重なって、ついに肝を据えて勉強を始めた。習慣になってしまえば勉強すること自体は苦ではない。語学はスポーツのようなもので、コツコツと筋トレのように語彙を増やし、ルール通りに動けるように文法の練習をし、練習試合のようにたくさん会話して上達していくもののようだ。海外暮らしのある種の孤独の中で打ち込むと決めたものはあることはある意味幸いだった。ある程度上達したところで、生来のおしゃべり好きが成長を助けたということもあるだろう。海外暮らしから遠く離れた今も細々と英語の勉強は続けている。

 さて、教習所に行くべきか否かという話から随分と外れてしまった。
 私にとって教習所でやりそうなことは苦手そうなことばかりに思えた。ルール通りに機械を操作をすること、引っ掛け問題が多いという噂の座学の問題、高圧的な教官…など聞けば聞くほど苦手ものばかりだ。加えて私は根本的に車への憧れが薄い。車が好きな人が車を語るときに帯びるメーカーや車種にはある種の熱がこもっている。しかし、私には大きい、小さい、四角い、赤い、黄色い、ぐらいのとても粗い解像度でしか車をとらえていない。こだわった車に乗っている弟の話を聞くと、本当にちんぷんかんぷんになってしまった。英語と違って生活や仕事で必要な瞬間もない。運転できないからといって人にバカにされることもない。

  ただ、苦手なことをやった方がいいと思ったのだ。三十代までなんとか得意だけを活かして伸ばして苦手分野をカバーして(カバーできない部分は周囲の皆様にお目こぼしいただいて)やってきた。生活でも仕事でも人生全般そんな感じな気がする。発達障害とはいかないが、生まれ持った能力を示すレーダーチャートが元々ガタガタだったところをさらに極端にガタガタにして人生を突破してきたのだ。これは努力も苦労もしていないということではなくて、大小さまざまなしかし、落ち着いた仕事や三十代というできないことを若さで言い訳できない年齢に差し掛かり、目を背けてきた「苦手」を克服したいと思ったのだ。もちろん日々の仕事や生活の中でも小さな戦いは起きている。その中で少しずつ慎重さや確実さを身につけているのではいかと思う。でもそういうものは何か節目や目に見えて分かる成果では示されなくて、じんわりと技術として身につくものだ。
 せっかちで欲しがりな私はつい分かりやすい成長の指標が欲しくなる。英語はTOEICを定期的に受けてみたりしているし、街にいる外国人が困っていたら助けることを口実に英語を喋ってみたりする。私の苦手なものの集合体としての普通免許取得を成し遂げたとき、車を運転できる以外に今まで目を背けてきたものとちゃんと向き合って何かを成し遂げたということを少しだけ自分に証明してやれる気がする。

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