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はじめてのてつがく対話 〜『#0 なぜ暗記パンに頼ってはいけないのか』を聞いて〜


こちらのポッドキャストを聞き、どうしても書きたくなってしまった。

もちろん未熟な自分の考えであり、出すことに不安しかないが、双方向の対話に端っこから参加するきもちで書いた。
まだ哲学とも言えないような私の小さな考えを伝えてみる。

考えるきっかけくださったおふたりに感謝し、これからも対話を聞き続けたい。
勝手な言動で不快な気分にさせてしまったら申し訳ありません。





人が「ずるい」と思うのはなぜか 〜暗記パンが使えるのび太くんは「ずるい」か〜


なぜ暗記パンが使えるのび太くんに対して「ずるい」と思うのかという問いから始まった。やはり、暗記パンとのび太くんを切り離す思考が「ずるい」と思うきっかけであると考えられる。
私たちは、人と切り離せるものは自分にも「ある」、切り離せないものは自分には「ない」と瞬間的に認識しがちである。
無意識にも、先天性と後天性を区別してしまっているようだ。
この考えだと、これまで私自身もどれほどの偏見と差別で人を見てきてしまったかと怖くも感じる。
しかし、そもそも「ずるい」という感情は悪なのか。

もしも、同じ教室にいる暗記パンが使える人に対して、羨ましいと思う人に、私はとても人間らしさを感じる。時間をかけず暗記してテストでいい点数を取ることができる人に羨ましいと思って当然であり、素直さ、正直さを感じる。
しかし、羨ましいという感情だけに留まることができず、個人的な不安感を感じたとき、周囲に対してずるいという感情を抱くようになると考えた。
自己の維持の不安定さが生む、一見関係のない他人への八つ当たりのようだと思う。
では、なぜこのような不安定さが人の心に生まれるのか。

具体的に学校の人間関係で試してみる。
教師に初めから能力を決めつけられることに怯える生徒がいる可能性について考えたい。
今の学校現場において、生徒と教師の信頼関係はどの程度だろうか。教師に対して、相対的ではなく絶対的に自分と接してくれ、主観だけでなく客観的にも自分を見てくれるという信頼感を持つ生徒はどのくらいいるだろうか。
教師と生徒だけでなく、このような信頼関係の構築は容易なことではない。人を信頼するにはある程度のリスクや責任も自分が負うことになる。
よって人は、良好な上下関係への改善向上よりも、同等立場の人に攻撃的になってしまうのだ。教師への信頼感を高めようとするよりも、相対的にクラスメイトより優位に立つことの方が楽だと考えるからだ。
ここに倫理的再考の余地があると思う。
「ずるい」の奥には「楽をしたい」がある。

「ずるい」と思うのは、自分が認められない可能性への不安と承認欲求があるからである。
自分1人では「ずるい」という感情はなく、集団の社会にいるから、他の人と比較してこの感情が生まれる。
他人からはアドバンテージが見えやすく、自分ではハンデが見えやすい。
また、自分を的確に評価してくれる人物の不在も不安感を増大させる。
よって、「ずるい」と感じるにも感じないにも自分以外の誰かが必要である。


チャンスは平等か



まず、チャンスの定義を考えたい。
誰かにとってはチャンスでも、他の誰かにとってはそれほどの価値を感じられないことかもしれない。
同じ条件のゴールを目指す他の人間がいて初めて、チャンスの有無、その平等性が注目される。
そもそも、ひとつの物事に対するチャンスの価値観の物差しが人によって違うため、どこから測ってチャンスが平等である(ない)と判断できるか、私の中ではまだ不明瞭だ。

そもそも、チャンスの有無はスタートラインに立つ以前の話である。
結局、直接他人からの評価に繋がったり、自分の人生経験としての自信になるのはその後の過程や結果だ。
チャンスの格差は、何かしらの問題や不具合が起こり、そのことが明らかになって初めて意識される。
格差があったとしても不自由なく進めていれば、チャンスの格差についての訴えがないはずである。

チャンスは、いくつかの項目に分けてそれぞれの観点で比較すると、平等ではない。
よって、あるゴールへのスタートラインとその過程では、不平等さに大きな影響を受ける。
しかし、自分の意思決定による結果を、最終的に納得するかしないかは自分次第だと考える。その自分次第の中には努力も含まれる。
したがって、結果をどう捉えるかという個人の視点においては、チャンスは平等になり得ると考える。


なぜ暗記パンに頼ってはいけないのか


ドラえもんはのび太くんに暗記パンを渡したという事実がある。
ということは、実際この社会には「暗記パン」を使うことができる人間がいることも事実である。それでも頼ってはいけないと言うのはなぜか。

私は自立と自律が関わると考える。
暗記パンを手に入れることと実際に使うことを別のことと分ける。
「暗記パン」を手に入れられるようになったのは自立であり(のび太くんの場合、同時にドラえもんへの依存でもあるが)、実際の使用方法は自律であると考えられる。
手に入れることのできる人とできない人の差は、やはり現代社会の不平等や不公平が生んでいる。

ここからは、いつの日か、今の世界にある諸問題が全て解決し、誰でも自由に「暗記パン」を手に入れられるようになった世界を考える。
そのとき、「暗記パン」を実際に使う人と使わない人とに分けることができる。その2種類の違いは自律心にあるのではないかと考えた。
「暗記パン」は勉強の思考力や判断力だけでなく、人間の道徳的、倫理的判断力も衰えさせると想像する。
誰でも「暗記パン」を手に入れられる世界で、「暗記パン」を使わない選択をした人は損だけをして滅亡していくのか。
もし何も考えず「暗記パン」を使い続ける人間しかいなくなれば、機械やAI(それこそネコ型ロボット)が人間を支配するようになるのではないか。

「暗記パン」に頼らない、
自律した人間であるために。


おわりに



今回、勝手ながら対話におじゃまして、そこから派生もしてここまで書いてみた。
哲学というより、私の想像の世界やら理想の世界やら、ファンタジー要素多めで、どこにその根拠があるかもわからないようなことばかりになってしまったが、私はわたしの価値観にちょっと近づけた気がする。

改めて私個人の興味関心のあるキーワードが浮かび上がった。

「学習」と「教育」
「甘え」「逃げ」と「頼ること」

これまでの私の頭の中で議題に上がることの多かったこのふたつのテーマについて、いつかの機会に書き留めたい。




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