🌎2つめの答え合わせ―日本人は、コレは相反しないんです
前回の続きです
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ポーランド孤児を迎え入れた頃、1920年代の日本人について、
当時フランスの駐日大使だった詩人、ポール・クローデルは
「日本人は貧しい。しかし高貴だ」
と語ったそうです。
白駒さんはこの「高貴さ」について、なるほど! と思う解釈を語ってくれました。
西洋人にとって「高貴さ」は、特権階級の人たち、つまり権力や経済力のある人でないと持てないことだと思われています。
“お貴族様”特有の資質、といえるのかな?
だから、「ノブレス・オブリージュ」などという考え方が生まれたのだそうです。
でも、日本人にとって、「高貴さ」と地位・名誉や経済力はイコールではないんですね。
それは「武士道」に通じるのかもしれませんし、
聖徳太子の十七条憲法にも通じるかもしれません。
実はこの「高貴さ」というは、わたしにとってここ数年のキーワードでした。
先に書いたあるセッションで、わたしが目指す本来のわたしがどんなものでありたいか、
掘り下げていった時に出てきた言葉が
「高貴な存在であること」
でした。
その時、わたしがイメージした「高貴さ」は、「ノブレス・オブリージュ」。
今思えば、西洋的な「高貴さ」と日本的「高貴さ」がごっちゃになっていたんだと思います。
「高貴な存在であること」という言葉は、以来わたしの『存在のまなゆい』として日々口にしています。
でも、「高貴」という言葉は腑に落ちても、「ノブレス・オブリージュ」は腑に落ちない……。
それをずっと感じていました。
ですが、今回の白駒さんの話でやっとスッキリできました✨
日本人は、“持てる者”の義務として、高貴さを発揮するのではないんですね。
高貴さに加え、品格も同じことが言えるかもしれません。
それらは、家柄や豊かさに関係なく、日本人の心の中にあって、もっと身近で当たり前のもの。
だから、日本人はそのことを取り立てて「高貴なこと」とは思っていないかもしれません。
「高貴さ」をもっと具体的にいうと、
人への心配りとか、利他、もてなしの心、和の心、などと言い変えられるのではないでしょうか。
そんな思いをベースにした行動が、西洋人から見ると、高貴で品格があることと思える。
だから、多くのポーランド人も「貧しくても高貴である」という在り方を真似したい、身に着けたい、と思ったのかもしれませんね。
わたしが目指すべき「高貴さ」は、こういうことだったんだな💗
納得です😉。
でもこの「日本人の高貴さ」は、もともと日本人誰もが持っていて、
気づいて発動させるだけなんですよね。
私たち日本人は、こんなに世界の人たちから尊敬され、その精神性は憧れの的なんです。
その心をみんなで思い出していきたいし、
私自身も多くの人の心を開く活動を、これからもしていきます。
そのための学びの場の1つが「まほろば」。
1年間、さまざまな学びで日本人の心(和の精神)を深めていけます。
まだ若干名、入校可能です。
興味のある方は佐藤までお声掛けください😉