小田原梅まつり 曽我梅林
2月3日(土)から29日(木)まで開催する小田原梅まつりに行ってきました。
JR東海御殿場線下曽我駅で下車。駅前の正栄堂さんで豆大福と鯵の骨せんべいを購入。途中、無人売店でみかんも追加。
会場まで要所に案内板があるので迷うことはない(たぶん)
日本食に欠かせない梅であるのだが、8世紀に交易によって中国から伝来されたと考えられている。小田原での栽培は、北条氏の時代に軍用に供するため梅干作りが奨励されたのが始まりという。とにかくも古いらしい。
現代では花見といえば桜だが、奈良時代ぐらいまでは梅見だった。
万葉集』巻五「梅花歌三十二首ならびに序」の詩序には
初春令月、気淑風和、梅披鏡前粉、蘭薫珮後之香
(新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装よそおう白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりを漂わせている)
と、ある。
残念ながら美女の装いのような美しさには一週間ほど早かった。
会場を抜けて見晴台に向かって歩く。入口で少し迷ったもののなんとか歩き始める。
さて、曽我といえば「曽我物語」で有名だ。
曾我兄弟は、母が曽我の領主と再嫁したことで曽我を名乗るようになった。
奈良時代の僧、行基作と伝わる瑠璃光薬師如来が安置されている。
もともとは山彦山(曽我山)の薬師沢の奥にある佛体ヶ窪(久士山)に安置されていたが、明応4年(1945年)北条早雲と小田原城主大森藤頼の戦にまきこまれて薬師堂が半焼し、薬師さまも背中と頭が焦げてしまっために焼け薬師と呼ばれるようになる。
江戸後期に編纂された「新編相模国風土寄稿」には「応福寺中華山と号す臨済宗、本尊薬師、行基作長四尺八寸立像」と記されている。
しかし、明治の廃仏毀釈により応福寺が廃寺となったため、地元で守られてきた。
普段は非公開だが、梅まつり期間中に合わせて特別公開されている。
ちなみに薬師さまを焦がしたこの戦いで、早雲は小田原城を奪取している。
また登り坂。
登るにつれ景色が広がっていく。
見晴台到着
「矢倉岳と金時山の形が面白いね」などと話しながら買ってきたみかんを楽しんだあと、一本松に向かう。
次は六本松を目指す
六本松跡は、曽我山(山彦山)の峠道で、六本の古松があったされる。鎌倉時代、曽我氏・中村氏・松田氏・河村氏の各豪族の居館と鎌倉を結ぶ他、大山参詣の道として中世の主要交通路であった大山道(中村通)の途中にあり、小田原に至る「箱根道」が交わる重要な峠であったといわれている。
また、この峠は、曾我物語では「山彦山の手向 」という名で登場し、曽我十郎と大磯の遊女虎御前との別れの場でもある。
創建は平安時代末期。大和国宗我比古神社の神主であった宗我保慶が祖先の宗我都比古尊の足跡を訪れたのが始りという。大化の改新で討たれた蘇我入鹿とは同族と思われる。
海岸沿いの東海道が整備される前は足利峠から連なる旧東海道筋として重要な地であった。
ここも戦火は避けられず、平安末期に一度焼け、曾我兄弟の養父である祐信が再建するもその後は幾度が焼けては再建を繰り返したのち、秀吉が社領を没収して神主を追放してしまう。その後は当時小田原藩主であった稲葉が再建するも関東大震災で倒壊し、氏子等の力で再建されている。
関東大震災の震源は首都直下ではなく相模湾であり、小田原は大変な被害を被っている。
地名としては曽我、名前としては宗我としている。とのこと。
境内にあった椅子に座りながら、残りのみかんと大福を食べる。甘みがエネルギーに変わっていくのがわかる。格別だ。
ここから下曽我駅までは近い。途中のコンビニで買ったコーヒーを飲みながら歩く。駅からバスで国府津駅に向かい、小田原駅到着。
小田原でのお楽しみ
道は整備されていて、ここまでのルートなら水分と携帯食があれば特別な装備はいらないと思うが、国府津駅、大山道まで行くのなら靴は専用を揃えたほうが良さそう。日陰はあまりないので帽子は必須としたいところ(この日は曇天だったために持ってはいなかった)