山辺の道を行く
日本書紀には、平群(へぐり)鮪(しび)と影媛の悲恋がある。二人は相思相愛だったのだが、皇太子(のちの武烈天皇)が影媛に求婚したことから悲劇が起きる。皇太子の命令で恋人を殺された影媛は、鮪が殺された乃楽(なら)山まで訪ねていった。(影媛道行歌)
「石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣きそほち行くも 影媛あはれ」
乃楽山とは、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境にある平城山(ならやま)のこと。
悲しみにくれる影媛は石上から歩いたが、我々は石上までのルートを歩く。
前日の雨はあがったが、雲がちの空模様。1枚では寒い。上着を着る。
駅前のコンビニで飯さえ盛り水さえ盛り……ではなく、ドライフルーツとチョコレート、最中をリュックに仕込む。水筒には温かいお茶。
朝10時出発
大和川を渡ると仏教伝来の碑がある。
昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川をさかのぼって到着する船着場があった場所。諸国や外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられている。仏教は、欽明天皇の時代に百済からこの地に上陸したと伝わる。
海石榴市を通る。
海石榴市とは、市が並ぶだけでなく、男女の出会いの場所(歌を交わす)でもあった。皇太子(のちの武烈天皇)は海石榴市の歌垣で影媛の気持ちが鮪のものだと知る。
海石榴市の観音堂を通り過ぎ、金屋の石仏にたどり着く
石棺の蓋を再利用、ってことは……いや、詮索はやめておこう。
山辺の道はその名の通り、山の形に沿っているのだろう。道がくねっている。
大神神社はご神体が三輪山なので、建物は拝殿で神殿はない。酒造りの神様でもあり、11月14日に行われる醸造安全祈願祭のためか酒が沢山奉納されていた。が、酒に詳しくない私にはよくわからない。
拝殿前に
「幸魂奇魂守給幸給」
(さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ)
と三回お唱えくださいと書いてあったが、舌がもつれてしまう。
狭井神社で御神水をいただいて再び歩き出す
大神神社の摂社。大神神社と同じく神殿はない。
崇神天皇が宮中に祀られていた天照大神をこの地に移し、その後に伊勢に祀られたことから元伊勢とも呼ばれる。御朱印帳に書かれていた「倭笠縫邑」とは崇神天皇が豊鍬入姫命に命じて祀らせた場所との意味。
ここで昼食休憩。せっかく三輪に来たのだからと門前の店でにゅうめんをいただく。柔らかくて優しい温かさがお腹にしみる。ほっこりしていると突然カラスが騒ぎ出してびっくり。
腹ごしらえが出来たところで出発。
景行天皇陵の案内があったので、少し寄り道。古墳の周りの堀に沿っていく。
この辺りは古墳が多く、他にも櫛山古墳、崇神天皇陵などがあった。畑として崩してしまった古墳もあるようだ。
画像はないが、道中は柿やみかんが多く実っており、道端で売ってもいる。ナイフがあれば休憩がてら食べることができたのにな、と少し惜しい(ゴミは持ち帰ろう)
衾道を 引手の山に 妹置きて 山路を行けば 生けりとも無し
衾道とは、衾田(地名)に向かう道のこと。人麻呂は引手の山に妻の亡骸を置いて山辺の道を歩いた。「生けるともなし」とは生きた心地がしないとのこと。どんなに悲しかっただろう。
これまで割と平坦だった道が登り始める。最後の追い込み。
(ガイドブックが天理から勧めるわけだ)
暗くなりかけていたせいか、鶏のほとんどは小屋に帰っていた。
石上神宮は物部氏の氏神。祭神は布都御魂大神。一度でも古代に惹かれた者は、是非とも訪れたい場所だと思う(私もその一人)
石上神社といえば、邇芸速日命が高天原が降りる際に天津神から授けられたという「天璽十種瑞宝」。子供たちに布留の言「ふるべふるべゆらゆらと……」と話すと
「なにそれ?呪術廻戦?」
「え……あ、うん」(だよね)
石上神宮を出ると道が開けた。
天理大学や天理教の建物を見ながら歩く。
16時40分 天理駅到着
コースタイム6時間40分。約12キロ。23000歩の道のり。
影媛は物部の娘である。
だから、物部氏の本拠地だった石上からから北へと向かった。
奈良までここから11キロ。皇太子に殺された恋人への供物を携えて泣きそほち行ったのだ。