小田原 石橋山古戦場を歩く
1180(治承4)年 後白河法皇の子、以仁王は、平家打倒を決意する。頼朝は、以仁王からの令旨を自軍の旗の上に掲げ、関東に進軍した
まずは早川漁港へ移動
小田原は東海道五十三次の江戸から数えて9番目の宿場町であり、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』の小田原には、酒匂川(さかわがわ)の浅瀬を渡る姿が描かれている
1674(延宝2)年、江戸幕府は軍事上の理由から、小田原にかかる酒匂川をはさむ興津川と安倍川、大井川の4つ河川の渡船を禁止し、徒渉制(かちわたりせい)を施行した。川を渡るには川越人足との徒歩、肩車、輦台渡し、馬渡しのみ。増水による川留めもあり、道中の難所だった
(あとで気がついたのだが、紀伊神社と早川観音をすっとばして歩いてしまった)
8月23日、頼朝は300騎を持って相模石橋山に陣を張った。対する大庭景親の呼びかけに応じた武士は、股野景久、海老名季定、河村義秀、曽我祐信、佐々木義清、渋谷重国、熊谷直実、飯田家義、梶原景時その他家の子郎党を含め3000余騎
頼朝方の先陣、佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与一塚(画像左)の傍らに建てられている。
佐奈田与一は、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎打ちになり、景久を組みふせたものの、その前の、敵将を討ち取った時に刀を拭わず鞘に刺したために血が固まり刀を抜くことができず、敵方の加勢により25才の若さで討ち取られた
組み討ち中、味方からの問いかけに痰が絡んで答えられなかったことで敵に討たれたという伝承から痰、喘息、声に霊験があるとされる
主君の討死を知った家臣の文三家康は、敵陣に切り込み8人を討ち取ったあと、壮絶な戦死を遂げた。
1190(建久元)年。頼朝は伊豆山権現参詣の帰途に両基を訪れ、亡き両人の忠節を忍び、涙を流したと伝わる
この戦のあと、頼朝は湯河原方面に逃走し、真鶴から船で安房(千葉)に逃れて三浦氏と合流し、再び、反平家の旗をあげる
(以下は以前歩いた湯河原ハイキング)
ここからは下りとなる
子供の頃、祖父は山に入るとアケビを取ってきてくれた。完熟のアケビはバナナにも似た味わいだが、さすがに落ちているものを拾う勇気はない
このあと、小田原駅で下車してかまぼこと梅干しを買って帰った
お疲れさまでした