自分の意見を言えない人
数年前と比べてweb会議の頻度が高くなり、そのエチケットというか暗黙のルールが出来ている。
私が気にするのはカメラのON OFFについてだ。これはいろんなところで時々話題に上がるが、カメラをOFFのままにしている人はミーティングに参加していないも同然、いわゆる傍観者、ギャラリーだと私は考えている。
カメラがOFFということは絶賛内職中ということでもある。in personの会議でもPC画面をずっと見ている、あるいはPCで作業をしている人もいるが、これも同様だ。よくあるのは
メールの処理:そんなもん、自分の業務時間にやれ、会議中にやることではない
資料作成:締め切りが迫っているのはよくわかる、が計画的に作業すべきでしょう
チャット:同じ会議に出席している人とチャットしているときもあるが、会議中は会議に集中すべき
というところかと。
もうひとつ。ここからが本題だ。「自分の意見が言えない」、言い換えると「断言することを避ける」傾向が本当に強い。
この傾向は顕著で、「〜だ」「〜である」という言い方よりも、「〜かもしれない」「〜と思う」という言い方が多用されている。これは断言することで自分の発言に責任を持たないといけないことを避けたいという気持ちの現れであるし、意見の衝突・摩擦を避けたいという潜在的な意識の現れなんだろうと推測する。
人によって意見は様々で、極論全く同じ考えの人は少ないはずだ。だから意見の衝突は当然あるわけで、それぞれの意見の真の意図をディスカッションの場にてつまびらかにすることで、更にお互いの意見に対する理解が深まり新たな知見を生み出すことができる場合もある。
なのに、自分の意見をあいまい表現によってぼやかして、いわゆる「事なかれ主義」に基づいたディスカッション(のような)場でやり過ごそうとする態度は感心出来ない。
これはかなり深刻な問題でもあると私は捉えるが、その一因は学校、とりわけ初等教育による影響が大きいのではないかと思う。
出る杭は打たれる、余計なことはしないという全体のトーンのなかで、自分の意見を自由に展開するという気質が小学校、中学校には存在しない。
私が小学生のとき、いわゆる「学級会」で何かクラスの決め事をするためにディスカッションをする場が設けられていたが、気に入らないのは
私も○○さん(くん)と同じ意見でーす
などとのたまう輩がなんと多いことか。同じ意見なわけないだろうと。
でもそのように発言すれば、その学級会には「参加」していて、しかも「積極的に発言」しているようにみえるわけだ。
本当は教員が丁寧にこれをみていて
「ん?本当に同じ意見なのかな?似ているかもしれないけど、どういう風に思っているの?」
と真の意見を引き出すように指導、誘導するべきなんだろうけど、教員にはそんなスキルも動機もないわけで…そんなことをしても面倒なだけだし、教育指導要領と教育委員会にがんじがらめにされている彼らには出来ない。
子供の頃からの国語教育とディスカッションスキルの指導という点ですでに日本は諸外国から大きく後れを取っているが、これが問題だと認識しないかぎり、我が国は衰退を続ける、いわゆる衰退途上国のままだろう。
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