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アンリ・カルティエ・ブレッソンが写真を撮る意義

写真を撮る意義がわからない

なぜ写真を撮るのかということを常に考えている。

はいわゆるストリートフォトを撮影する(自称)フォトグラファーだが、一端にもふと写真を撮る意義について考えてしまう。

もちろん、答えが出るわけではなく、いつも「まあ、いっか」と結論も出さずに終わっている。

今日この頃も写真を撮る意義について考えているわけだが、今日こそは決着をつけたい。

古本屋で出会った古雑誌

このnoteを書こうと思ったきっかけの話をするならば、先日高野氏と古本屋に行ったときに買った一冊の古雑誌である。

表紙にはマグナム特集の文字。
ストリートフォトが好きな人は皆マグナムが好きなわけで、即刻中身も見ずに購入。

読みすすめていくとブレッソンのインタビュー「なぜ私は写真を撮るか」の記事。大当たり。

ブレッソン先生に写真を撮る意義についてご教授頂こう

なぜブレッソンは写真を撮ったのか

結論は2つ「写真の造形的な面への興味」「日記を綴る方法」とある。
面白いのは次の一文。

撮影するときは、雑誌のために写しているんだなということは、少しも考えない。もし、そこにストーリーがあれば、そのストーリーに熱中し、目に映ったものをただ記録するだけである。

アートをやっているとか、自己表現だとかそういったことは全く書いていない。
ただ記録するだけとある。

私なんかは、写真を撮っているときは、「いい写真が撮りたい!」「いい瞬間をいい形で収めたい!」という気持ちがはやる。

ブレッソンはこれを良しとしない

みなさんは”どの写真がいちばん気に入ってますか”などと質問されるが、そんなことは私には少しも興味がない。
あるのは次に撮るべき写真であり、次に行くべき場所である。

後悔していても意味がない、次の機会に備えろということだろうか。
ブレッソンが画家であるということを考えると、出来上がってしまった作品に対しては興味がなく、作品を作る過程、つまり写真でいうところの撮影する瞬間、それにつながる一連の過程こそに興味があるということらしい。

私は名声とか、これに類したものに疑義を抱いている。(中略)誰が一番偉大な作家かなどという他人と争うような話はナンセンスであり、とても鼻持ちがならない。

つまりは、写真がうまいとか、フォロワーが多いとか、承認欲求で写真をやっているわけではないし、誰かに勝とう、有名になろう、として写真を撮っているわけではないということだ。

確固とした自分の美学と照らし合わせて、自分が美と認めるものを記録として残したいということだろうか。

最後に

時代も違えば、立場も違うけれども、勉強になる話だった。
紹介したほかにも、ブレッソンの写真に対する美学に対する記述があったので、そこについてはまた別の記事で紹介できればと思う。




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