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中退前夜

人は、安らぎを求めて旅をする。あるいは決意を固めるために。

大学1年の秋、私は後者の旅に出た。旅と言えど、30㎞離れた観光地O
市にママチャリで行くだけであったが。そんな自転車旅なら決意じゃなくてケツが固くなるだけじゃねーか、と思われるかもしれない。いやいや、私はこの旅の成否に人生を委ねていたのだ。

O市に辿り着けたら、大学を辞める。

私としては、やり遂げることで自分の意志力を証明する→中退しても何とかやっていける、というロジックだった。今思うと、一ヶ月早起きできたら一流のパン屋になれる、と信じるほどの勘違いだ。冷静さを失うほどに、当時の私は大学生活に価値を見いだせなかった。

大学生に制約は少なく、単位が取れれば後は自由だ。何をするか、誰に会うか、裁量権は自分にある。だが、私は新しい世界に踏み出せなかった。ある日突然、鶏舎から草原に放たれ固まる鶏のように、身に余る自由に困惑した。すぐに私は鶏舎に戻った。家と学校の2カ所で完結していた中高時代と、さほど変わらない生活。加えて受験期のアスリート的な禁欲思想から抜け出せず、YouTubeすら素直に楽しめなかった。何の悪さもしていないのに、謹慎中のようだった。

そんな時にママチャリ小旅行に飛び出した。4時間かかったが、ハプニングは何もなくO市に到着。帰り際、涙ぐみながら夕日に中退を誓った。

ストレートで4年生になった今、辞めなくてよかったと思う。当時の私を動かしたのは、何かを成し遂げる情熱でなく、現実からの逃避だった。だからあの時社会に出ても、すぐに壁にぶつかり嘆き、再び背を向けただろう。

私はきっと、安らぎが欲しかったのだ。生活圏を最小に留めていたから、決意を懸けた冒険は最高に感傷的で、そのスパイスがむしろ安らぎだった。

私は現在、すごくホワイトな研究室にいる。半年で白髪が散見されるほどだ。つまりブラックである。インドカレー屋の辛さが段々とあがっていくように、刺激(痛み)の尽きない日々だ。最近は、この研究をして何の意味になる?と極論に達してしまうこともしばしば。精神的に疲れていたので、安らぎを求めて旅に出た。

海を見渡せる丘に立つ、木造のカフェを目指した。いつか景色と珈琲を味わいたいと思っていたお店だ。

窓からの眺めは、まるで額縁に飾られた水彩画だった。黒いインクを垂らしても、瞬く間に広がり薄まるだろう。そんな風に、私の日常のストレスは、青い海に溶けていった。飲み干した熱いコーヒーで胃が温まるのを感じていると、気化するようにふっと意志が浮かんできた。

誰かが読む文章を、ペースを守って書き続けよう。

決意の為に飛び出した3年前、結局何も変えられなかった。安らぎを求めて漕ぎだした今回、埋もれていた意志を見つけた。そしてnoteを始めるに至った。

「背負ったものを全て投げ出したい」今でもそう思う時がある。でも私には、そうする勇気も自信もない。だから、ろくろを回して陶器を作るように、人生という粘土の形を、少しずつ作り変えていきたい。

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