《馬鹿話 660》 ワンコイン・ブルース(十)
善次郎はポツンと取り残された自販機の傍にいた。
「これまでありがとう、ご苦労さん」
善次郎は自販機に声を掛けてから、そっと触れてみた。
駐車場はすっかり更地に戻り、縄が張られた空き地の前に立つ一台の自販機は寂しそうに見えた。
空き地は、明日から始まるビル工事を待っていた。
「善好ビルか」
工事看板に書かれた、ビルの名前を善次郎は呟いた。
自販機に別れを告げ、善次郎がその場を立ち去ろうとした時、一台の青いスポーツカーが善次郎の傍に止まった。
男は車の窓を開けて「ここに駐車場がなかった」と善次郎に声を掛けた。
「もう駐車場はないよ」
善次郎は男の方を見ることもなく答えた。
「やぁ、あの時の人」と男が呼んだ。
善次郎は突然の問に、男の顔を見た。
「あの時の」と善次郎も男の顔を見て声を上げた。
男は五年前に善次郎に自販機をプレゼントしてくれた人物だった。
「うまくいったかい?」と男は善次郎に尋ねた。
「あの自販機のお陰で立ち直れました」
善次郎は自販機を指差して答えた。
善次郎は男に丁寧に御礼を伝えた後、今では仕事が順調に回り始め、自分のビルが持てるようになった経緯を話した。
男は「それは良かった」と善次郎に言った。
善次郎は前から一つ気になっていたことを、男に尋ねてみようと思った。
「どうしてあの時、私に自販機をくれたのですか?」と善次郎は男に訊いた。
「前にも言ったと思うけど、あの時、もし後数時間遅れていたら、FXで大損をするところだった」
「そうなっていたら、あの時のあんたと同じように、俺も一文無しで、路頭に迷うか死んでしまうところだったからね」
男は善次郎にそう言った。
「それとね」と男は言い掛けて言葉を止めた。
「なんです?」と善次郎は男に話しの続きを促した。
「あの日、立ち寄ったコンビニで、変なおばさんに出逢ってね」
「運は誰かに預けないと、利子が付かないと聴いたんだ」
「確かに、あんたに自販機をプレゼントしてから、俺もツキがでた」
男は善次郎に「まあ、お互いさまで良かったじゃないか」と言って笑った。
「じゃあ、元気で」と男は善次郎に言い残すと、車に乗った。
善次郎は男の車を見送ると腕時計を見た。
「早く帰らないと、妙子が心配するな」
街に黄昏が降りて来た。
― おわり ―