《馬鹿話 675》 あなた
「山のあなたの空遠く、幸い住むとひとのいう。。。か」
清三は智恵子の好きだった詩を思い出して独り呟いた。
「待てよ。と云うことは、あなたは彼方で貴方だから、つまりあなたは俺のことだったと云うことか?」
「とすれば、俺と一緒に暮らしていたときも、もっと遠くに幸せがあると思っていたのか?」
「これは、何とか聞き出さないと」
清三は、急いで自転車に飛び乗った。
行先はいつものお墓。
お墓にやって来ると清三はパンパンと柏手を打った。
知らない人が見れば、お墓の前で柏手を打つ清三の姿は奇妙に映ったが、これは清三がやって来たことを妻の智恵子に知らせる合図だった。
「おーい、早く出てきてくれ」と清三は墓石を抱えて揺らそうとした。
「だめよ、だめ。そんなことしちゃ」と智恵子の声が清三には聞こえた。
いつものように、智恵子の声は清三にだけ聞こえた。
清三はお墓の裏に回って、智恵子を呼び出した。
「正面玄関でこんな話をすると、また親父が立ち聞きするかも分からないから、こっちに来てくれよ」
清三はそう言って、智恵子を裏に呼んでから尋ねた。
「おまえ、いつもあの詩を口遊んでいたよな」と清三はいきなり切り出した。
「えっ、なに?」と智恵子の声が清三の頭の中で言った。
「ほら、山のあなたのってやつ。あれだよ」
「あの詩の中で、遠くに幸せがあるって言てるだろう」
「あの、山のあなたのあなたって俺のことか?」と清三は尋ねた。
清三の頭の中に智恵子のクスクスという笑い声が聞こえた。
「そうかもね、随分遠い所まで来ちゃったけど、あなたの近くの方が幸せだったわ」と智恵子の声がした。
「あなた、昔のこと覚えてる。初めて友達の結婚式で会ったときのこと」
「あなた、穴のあくほどわたしのこと、見つめるんですもの」
「とうとう、わたしの心に穴が開いちゃったのよね」
「わたしが、そんなに見つめないでって言ったら」
「あなた、穴があったら入りたいなんて言って」
「ほんとに入ちゃた」
すると清三が何時ものように茶化して言った。
「山のこなたの空近く、清三住むとひとのいう」
智恵子はまたクスクスと笑った。