《馬鹿話 734》 染みの誘惑 ②
私が入居しているマンションは、13階建てなのだが、部屋の番号は1404号室で、実際は13階の4号室と言うことになる。
マンションが建てられたのは、定礎を見ると10年前で、私が部屋を借りたのが3年前だった。
「と言うことは、壁に開けられた穴は、少なくとも自分が入居する4年前には開いていたことになる」と私は思った。
「それも変だなぁ」と私は呟いた。
何故なら向かいのビルは、2年前に外壁の大規模な工事をして、ビルの看板も新しく付け替えられたはずだったからだ。
「すると、あの穴から見えた看板は、部屋の居住者があの穴から外を覗くことを、あらかじめ予想していたことになる」と私は思った。
ここまで考えて、私は向かいのビルの最上階にあたる19階の窓をもう一度見た。
確かに非常用進入口の赤いマークの下に例の指矢印はあった。
「そこから窓を割って中に入れと言うことか?」と一瞬考えたが、直ぐに「まさかそんなことはできないし、矢印のことは忘れてしまおう」と私は自分に言い聞かせた。
翌日になり、それでも頭から離れない矢印のことが気になり、向かいのビルに行ってみることにした。
貸しビルの中には多くの会社が入っていた。
昨日見た最上階には、どんな会社が入っているのだろうと気になって、ビルのエントランスに掲げてある会社名の書かれているボードを私は探した。
ボードには19階に10社が入っているようだったが、1社分の表札は空欄のままだった。
気になる時は気になるものだ。私の心の中に押さえきれない好奇心が湧き出て来た。
「どんなところか一度見てみよう」と思い、私はビルのエレベータで19階に向かった。
目的の階に到着すると、19階のフロアの間取りは、それ程大きくない事務所のような小部屋が、通路となる薄緑色のリノリウムの廊下を挟んで左右に配置されていた。
事務所のような部屋のドアには、それぞれの会社名と思われる表札が掛かっていた。
エレベータの正面に当たる小さな踊り場の向かいには、洗面所と思われるドアがあった。
「左に行けば1905で、右に行くと1906か」
まずは、エレベーターのドアを背にして右側に続く廊下を部屋番号を確認しながら歩いた。私が住むマンションとこのビルの位置関係を頭の中で想像しながら進んだがそれらしい部屋は見つからない。
廊下の端まで行って折り返すと、今度はエレベータの前を通り過ぎ廊下の左側に行ってみることにした。
こうしてどの部屋が私のマンションに空いた穴から見えた部屋なのかを探した。そして廊下の突き当りにある部屋まで来た時だった。
「おやっ」と私は思った。
その部屋には部屋番号のプレートもなければ社名の表札も出ていないのだ。
「もしかすると、この部屋かも知れない」と私は直感した。
名前のない部屋の前で私は暫く悩んだ。
「このまま引き上げても何も解決しないなぁ」と私は決断すると、思い切って部屋を尋ねてみることにした。
ノックを何回かしたが、中からの返事は返ってこなかった。
私はドアのノブをゆくりと回してみた。
部屋には鍵が掛かっていないらしく、ドアを引くと簡単に開いた。
「すみません」と部屋の中に向かって声を掛けてみたが、部屋の中はがらんとした何も置かれていない空室で、床は青いカーペットが引き詰めてあるだけだった。そして、部屋には誰もいなかった。
「空き室なのか」と私は思った。
私はそのまま部屋の中に勝手に入り込むと、足早に部屋の中を横切り窓の側まで行ってみた。
非常用進入口の赤いマークが貼ってある窓は直ぐに判った。
「マンションの部屋から見えた、矢印はこれだな」と確認しようとした時だった。
私の背後で「バタン」とドアの閉まる音がした。
― つづく ―