
《番外》僕から父への六文銭(1)
2024年9月2日、早朝から母に起こされて聞いた知らせは父が危篤状態であるとのこと、なんとか間に合いますようにと病院に向かったが、病室について聞こえるのは心臓が止まったという電子音のみであった。看護師さんは「つい5分前に息を引き取られました」と教えてくれた。
父の咽頭癌が見つかったのはもう8ヶ月も前のことである。私が高校生の時に離婚して以来、数ヶ月に一回程度顔を合わせるくらいだった父だったが、リンパの腫れがひどいからと病院で診てもらったところ咽頭癌との診断を受けた。父は虫歯も放置するくらいの病院の嫌いな人だったから、リンパの腫れだと言い張り病院に行くのが遅くなってしまった、その為先生からももうそんなに長くないかもしれないと母は聞いていたそうだ。僕が父の癌について知ったのは診断を受けた翌日である。母が病院に連れて行くとのことで同乗した際父にあった、それはそれはとても大きな腫瘍ができていて、呂律も回らないというふうに父はあまり回らない口で教えてくれた。その時はまだ、大学はどうかとか免許を早く取れだとか他愛もない話をしていた。
入院の準備、手続き、荷物の運び出しを終え、父と別れてから、母は病気の詳細やこれからのことについて話してくれた。これからもう長くはないこと、長男である僕が相続の手続きをする必要があること、離婚している母に戸籍上のつながりがない為喪主を務める必要があることなどである。
それから病院で父はずっと先生に同じことを聞いていたという話である。
「今年で息子が成人を迎えるんです、それまで何とか持たせることはできませんか?」
とは言え発見されたのは2月ごろ、僕の成人式はあと一年、たった一年だが、父にとっては長い一年である、先生は伝えにくそうにしながらも、まず難しいと言っていたそうだ。
父の生前について記しておきたいと思う。
父は適当な人だった、いつも意味のわからない嘘はつくし、田舎の家に生まれた長男だから、考え方が古くて、僕が髪を伸ばすと女みたいだからやめろという様なまぁ素晴らしいと言える様な父ではなかった。まだ、家族が仲良く住んでいた時は父は営業の仕事をしていて毎日働きに出ていて、それから帰りは毎日僕たちにお土産を買ってきてくれていた。全然遊んでくれないし、意味わからないことは言うし、休みの日は寝てばっかりで、僕は父とゆっくり話すことさえしなかった。
とある日に突然父は疲れたと、仕事を辞めた。それからは家で横になっているばかりでろくに仕事も探さず、家計は圧迫されていき、そう言う不和で母と父は離婚することになった。家族がずっと喧嘩している空間が嫌だった僕は早く離婚して父に早く出ていってほしいと思っていた。
父が出ていきいろいろな手続きを終えた後に知ることになるのだが、父はかなり借金をしていた様で、父が働かなくなった分、その負担は全て母が背負うことになる。父はずっと僕に大学には安心して行っていい、と言ってくれていたが、結局全部払っているのは母である。そんな情けない父をどこか軽蔑していて、碌な仕事もしてないダメな親だと心のどこかで馬鹿にしていた。こうはなりたくないと思っていた、自身の父が恥ずかしいとまで思っていた。
とある日に僕は野暮用で父に会いに行くことになった、病院に荷物を届けに行っただけだが、父は無理に体を引きずって会いにきた、そこにいたのは痩せ細っていて髪もすっかり抜けた、50になったばかりとは思えない老けた父であった。
死を意識してしまうことを恐れて、あまり父に会いに行っていなかった分、その痩せ細り方をみてかなりショックだったことを覚えている。
結局父は荷物を受け取るやいなや、すぐ僕に帰れと言って病室に戻って行った、ちょっとの間だけでも話せたらいいなと思っていたのだが、せっかく来てやったのに!と言う気持ちがあり少し不満ながら僕も病室を後にした。
それから家に帰っていると母から父とのLINEでのやり取りが送られてきた、その内容は父が、息子の顔を見たら嬉しくて泣いてしまいそうになったからすぐに返してしまった、また会いにきてほしいと言うふうに母に話している写真であった。父からの愛を感じると共に、やはりあの父でも弱っているのだなと感じる1日となった。
6月、父が仮退院すると言う話が出てきた、なんでも自宅療養になるだとか病院が変わるとか色々話し合っていたそうだ、その辺の話はよくわからなかったのだが荷物がいっぱいになるからと荷物を持つために父を迎えに行った。最後にあってから1ヶ月くらいは経っていたのだが、腫瘍は大きくなって行っているものの、本人はかなり元気そうであまり変わりのない姿に僕は少し安堵した。父を自宅に送ったり荷物を運び出したりしている際、父はちょっと来いと僕を呼び近くのたこ焼き屋さんで僕の分と父の分と二人の分たこ焼きを買ってくれた。父は喉を通らず本当は何も食べれないのだが、好きなものをちょっと食べておきたい、もしかしたらいけるかもと挑戦してみるんだそうだ、たこ焼きを買ってもらって嬉しかった僕は、完治したら姉と父とまたみんなで一緒にラーメンを食べに行こうとか、ガンダムの映画を二人で一緒に観に行こうだとか、そんな明るくて楽しい話をしていた。心のどこかで完治など出来ないのだろうとわかっていたのだが、前向きな父にそのことを示唆することは僕には出来なかった。
自宅療養をしていたが、父の容態は自然に悪化し、病院を変えたが、もう完治は無理とのことで、緩和ケアに移行することになった。当時あまり理解していなかったのだが、もうこの時点で父は死ぬことがわかっていたのだ。だがそんなことはつゆ知らず何度かお見舞いに入っていた僕だったが、大学やアルバイトが忙しくあまり顔を見せに行けていない日々が続いた。父は行く度に悪化していて、もうしゃべることもできなくなっていた。
それから世間ではコロナウイルスが再熱し、病院での面会ができなくなってしまった、着替えを持って行くだけの生活をしていて。父は母に誰にも会えなくて寂しい、と何度か連絡を取っていたそうだ。最後まで父は結局僕たちには何も言わず、母にだけ、その弱みを見せていたのだ。
9月を迎え病院は面会断絶状態を終了した、父はそれを喜び、母にもう会いにこれるよ会いにきてほしいと言う連絡をしていたそうだ。母の仕事の都合から、9月3日にじゃあ子供達を連れて面会に行くねと、約束していた。
そうして9月2日父は誰にも合わないまま亡くなった。
父はとても安らかな顔をしていて、とても笑顔で、ちょっと呼んだら今からでも目を開けて、冗談でした〜!とでも言ってきそうなほどそのままの姿だった。
目の前に広がるそれに、僕だけは触ることができなかった。触ればきっと死んだとわかってしまうから、触ればきっと溜め込んだ涙が溢れ出てしまうから。うるさいくらいにずっと心臓が止まっていることを教えてくれる電子音、ドラマとかでは、ピー!とずっと鳴っていたイメージだったが、実際以外にピー!ピー!と小刻みになるものなのだなぁと思った。先生が父の体を揺らす度にディスプレイが振動を記録するので、それがなんの記録がわからない僕は生き返ってくれたんじゃないかとありえもしない期待を寄せてしまっていた。ずっと父親に文句を垂れていた母は、父の顔に触れながら、頑張ったね、頑張ったねと涙を流していた。姉は明るいねーちゃんのことがパパは好きやったからと気丈に振る舞い、もうちょっと頑張ったら会えたのに!全くパパばずっとそう言う男やなぁ、などと話していた。
僕がただ茫然と立ち尽くしているのを見て、看護師さんが話しかけてくれる。
父はモルヒネ治療を拒んだそうだ、モルヒネを使って痛みを抑えればちょっとは楽になるはずなのに、それで意識を失って、息子や娘に会えなくなるのが嫌だからとずっと、苦しいのを耐えていたそうだ。またリハビリの先生は、父がずっと真剣にリハビリに取り組んでいて、退院して息子たちとラーメンを食べに行くとずっと言っていたと教えてくれた。
そう言えば聞いたことがある、人は死んでも耳だけ最後まで聞こえているそうだ。だから僕に借金ばかり残した父に、成人式を見てくれなかった父に、最後に嫌味でも残しとかないと行けない。
ティッシュで涙を拭いて、父の顔を撫でながら父に聞こえる様に最後に伝えた。
ずっと僕達のために頑張ってくれてありがとうパパ、おやすみ。
まだ身体は暖かかった。